クィア・スタディーズ


1 クィア・スタディーズとLGBTQ

クィア・スタディーズとは性の多様性を考察する比較的新しい学問領域であり、とりわけセクシュアルマイノリティ(性的少数者)に関する論点を多く扱う。周知の通りセクシュアルマイノリティは近年において「LGBTQ」という「Lesbian レズビアン」「Gay ゲイ」「Bisexual バイセクシャル」「Trancegender トランスジェンダー」「Queer/Questioning クィア/クエスチョニング)」の頭文字をつなげた言葉で呼称されるようになった。こうした「LGBTQ」を理解する上で鍵となるのが「性的指向(Sexual Orientation 恋愛感情や性的欲望が向かう性別)」と「性自認(Gendar Identity 自身の性別が何であるかの認識)」という概念となる。

レズビアンとゲイはそれぞれ女性同性愛者と男性同性愛者のことである。ここでいう「同性愛」とはその性的指向が同性に向かうことを指している。同性愛を指す言葉としてレズビアンは19世紀末から、ゲイは1950年代から用いられるようになったといわれている(なお念のため「レズ」とか「ホモ」といった言葉はいずれも「レズビアン」「ホモセクシュアル」の単なる省略形ではなく同性愛者に対する蔑称として使われてきた歴史があることから、少なくとも当事者に向けて使うべき言葉ではない)。

バイセクシャルとは両性愛者のことである。もっとも両性愛者には同性愛モードと異性愛モードが自身の中に共存している人もいれば、そもそも性的指向の基準に性別が含まれないという人もいる。とりわけ後者をパンセセクシャルという。

トランジェンダーとは自身に割り当てられた「性別」とは何らかの意味で異なる性自認を持つ人をいう。この点、トランスジェンダーはさらにトランスセクシュアル(身体的に割り当てられる「性別」とは異なる性自認を生きる人々)、狭義のトランスジェンダー(社会的に割り当てられる「性別」と異なる性自認を生きる人々)、トランスヴェスタイト(社会的に割り当てられる「男らしさ/女らしさ」に抵抗する人々)に分類される。

クィア/クエスチョニングとは自身の性的指向や性自認が定まっていない人をいう。例えば男女どちらにも性的指向を抱かない「アセクシャル」や自身の性自認が不確定な「Xジェンダー」などが含まれる。

また、このような「性的指向」と「性自認」の組み合わせから「トランスジェンダーのレズビアン(生物学的には男性だが性自認は女性で女性を性的指向の対象とする)」や「バイセクシャルのトランスセクシュアル男性(生物学的には女性だったが男性に性別適合手術を行なっており性自認は男性で男女双方を性的指向の対象とする)」といった多様な性のあり方を想定することができる。


2 クィア・スタディーズにおける三つの視座

クィア・スタディーズは社会的には1980年代に世界各国のゲイコミュニティが直面したHIV/AIDSという問題を受けて、学問的にはフランス現代思想におけるポスト構造主義の影響の下で成立した。ここでいう「クィア」という語はテレサ・デ・ローレティスによる論文「クィア・セオリー」に由来する。この論文以降、1990年代に立ち上がった性、特にセクシュアルマイノリティに関する一定の視座を共有する諸研究がクィア・スタディーズと呼ばれるようになる。その基本的な視座は大きく言えば以下の三つである。

その一つ目が「差異に基づく運動の連帯」という視座である。クィア・スタディーズは多様なセクシュアルマイノリティをそれらの差異を隠蔽することなく関連づけて考察することを目指している。特にゲイに関する研究や記述をもってセクシュアルマイノリティ一般を代表させてしまうような「ゲイ中心主義」は批判の対象となり、性のあり方の序列化がセクシュアルマイノリティの研究の中に忍び込んでしまうことが警戒されるようになった。

その二つ目が「否定的な価値づけの積極的な引き受けによる価値転倒」という視座である。そもそも「クィア」という言葉は男性同性愛者やトランスジェンダー女性に対するかなり暴力的な侮蔑語(日本語で言えば「オカマ」に相当するような言葉)として英語圏で用いられてきた。このような否定的なニュアンスを持つ「クィア」という言葉をあえて自ら用いてその内実やイメージを定義する力を当事者に取り戻そうとする考えがクィア・スタディーズの根底にはある。

その三つ目が「アイデンティティの両義性や流動性に対する着目」というの視座である。それまでのセクシュアルマイノリティについての学問はマイノリティはそれぞれ一貫したアイデンティティを持つべきであり、そのことによって政治運動が可能となると考えられていた。しかしクィア・スタディーズにおいてはこうした「アイデンティティは一貫しているべき」というその発想の弊害ないし功罪こそが問い直されることになる。

差異に基づく運動の連帯、否定的な価値づけの積極的な引き受けによる価値転倒、アイデンティティの両義性や流動性に対する着目--以上の三つの視座から観た時、クィア・スタディーズの最大公約数的説明とはほとんどの場合、セクシュアルマイノリティを、あるいは少なくとも性に関する何らかの現象を、差異に基づく連帯・否定的な価値の転倒・アイデンティティへの疑義といった視座に基づいて分析・考察する学問ということになる。


3 クィア・スタディーズの基本概念⑴

こうしたクィア・スタディーズにおいてまず重要となる基本概念が「パフォーマティヴィティ」「ホモソーシャル」「ヘテロノーマティヴィティ」である。

まずジュディス・バトラーの提示した「パフォーマティヴィティ」とは「男らしさ/女らしさ」という言葉の揺らぎを明らかにした概念である。この概念はもともと言語哲学者ジョン・L・オースティンが生み出した術語をポスト構造主義の哲学者ジャック・デリダが批判的に書き換え、デリダの影響を受けたバトラーがこの術語をジェンダーに当てはめて成立した経緯がある。

この点、バトラーによれば言語の「コンスタンティヴ(事実確認的)」な意味とされるものは「パフォーマティヴ(行為遂行的)」に産出される言語使用の最大公約数的特徴に過ぎないが、この「意味」とはあたかも実際の言語使用の前から存在しているかのように見えてしまい、それゆえに「男らしさ」「女らしさ」という言葉もまた、まさにそのようなあらかじめ決まっていたかのように見えてしまうものであると考える。

けれども同時にバトラーはそのような言語使用の繰り返しは絶えずズレや綻びを生み、それゆえにその最大公約数は変化しうるものであると考え、性に関する根本的な「変えがたさ」の無根拠性を暴き出した。そして、こうしたバトラーの議論の含意を解きほぐす形で先に述べたクィア・スタディーズの基本的視座が練り上げられていくことになった。

次にイヴ・コゾフスキー・セジウィックの提示した「ホモソーシャル」は男性中心社会におけるルール形成を分析する概念である。セジウィックによれば「ホモソーシャル」な男性同士の紐帯はまずは女性を媒介として成立し、そこで男たちはこの女性を奪い合うライバルとしての絆が強くなる、という。他方でこうした媒介となる女性がいない場合、男性同士の紐帯はそこから逸脱した存在である「ホモセクシュアル」を見下す「ホモフォビア(同性愛嫌悪)」によって可能となる。

すなわち「ホモソーシャル」と「ホモセクシュアル」はよく似ているため「ホモソーシャル」な男性同士の紐帯は「ホモセクシュアル」からの区別を繰り返し確認する必要に迫られ、この繰り返しによって男性中心社会のルールが再強化されていくということである。こうした意味で「ホモソーシャル」な社会とは女性差別や男性同性愛差別と表裏の関係から成り立つ社会ということになる。

そしてマイケル・ワーナーが用いた「ヘテロノーマティヴィティ」は異性愛中心の社会構造を問題化する概念である。この点、ワーナー自身はこの用語を特に定義することはなかったが、その後この用語は学術的な議論の中で洗練され、その最大公約数的な説明によれば「ヘテロノーマティビィティ」とはトランスジェンダーではない人々によって営まれる「普通」の異性愛をこの社会において正しいものとし、その他の性のあり方は間違っているという思想をいう。

ここでいう「ヘテロ」とは異性愛のことを指し「ノーマティヴィティ」とは規範性(ノーマルであること)を意味している。この概念は異性愛を「唯一の正しい性(愛)」として規範化し「その他の間違ったさまざまな性(愛)」を序列化する社会構造を問題化することで「その他の間違ったさまざまな性(愛)」とされた側が連帯するための思想的な柱となった。


4 クィア・スタディーズの基本概念⑵

その一方で、ゼロ年代のクィア・スタディーズにおいてはセクシャルマイノリティを既存の体制へ取り込もうとする傾向を問題化した「新しいホモノーマティビィリティ」や「ホモナショナリズム」という概念が提出された。

この点、リサ・ドゥガンが用いた「新しいホモノーマティヴィ」は同性愛者が市場に取り込まれることを警戒する概念である。元々「ホモノーマティヴィティ」とはセクシャルマイノリティ運動の中で同性愛差別の解消が優先されトランスジェンダーが軽視される傾向を批判する言葉であったが、ドゥガンによって更新された「新しいホモノーマティヴィティ」とは市場における「よき消費者」として存在感を示す裕福な男性同性愛者のあり方を指している。

実際問題、自身のセクシャリティについてオープンにさえしなければ「普通」の人々と同じ条件で就労可能な同性愛者と、治療に高額の費用がかかる場合が多くその容姿で差別され就労の機会が奪われやすいトランスジェンダーではどうしてもその所得や購買能力に格差が生じることになる。また男性優位な社会構造においては同性愛者の中でもゲイに比べてレズビアンはやはり不遇な立場に置かれることが多いと思われる。すなわち、こうしたセクシュアルマイノリティ間における「ゲイの一人勝ち」を「新しいホモノーマティヴティ」は告発しているということである。

また、ジャスビル・プアの作った「ホモナショナリズム」とは同性愛者が国家に取り込まれることを警戒する概念である。プアは同性愛者がナショナリズムを支持する見返りに自らを認めてもらおうとすることで逆説的にも既存の差別的な国家のあり方を維持強化してしまうことを批判するためこの概念を作り出した。

例えばアメリカ軍における同性愛者差別撤廃運動にこの「ホモナショナリズム」の特徴が顕著に表れている。またアメリカやイスラエルがイズラム圏への攻撃や外交的圧力を正当化するためイスラム圏の同性愛差別を持ち出す「ピンクウォッシング」という動きも批判の対象となる(ここでいう「ピンク」とはナチスドイツによる同性愛者虐殺に由来する同性愛者のシンボルカラーである)。要するにここにはアメリカやイスラエルのような「進んだ」国と違ってイスラム圏の国々はいまだに「遅れた」国だから攻撃したり圧力をかけてもかまわないという論理がある。すなわち、こうしたセクシュアルマイノリティの政治的な利用を「ホモナショナリズム」は告発しているということである。


5 アンチ・ソーシャル的転回について

さらに、このようなゼロ年代半ばのアメリカにおけるクィア・スタディーズにおいては、レオ・ベルサーニやリー・エーデルマンといったクィア理論が形になる以前から活動していた文学研究者が展開する「アンチ・ソーシャル」な議論に注目が集まることになった。

この点、ベルサーニはその著作『ホモズ』(1995)の序文において従来の市民社会に適合するような人物像、すなわち「悪きノーマル」に異議を申し立て「よりよきノーマル」の再考を促していく「社会改良主義」に寄与する都合の良い存在として「クィア」を称揚する語り口に対する強烈な批判を展開している。

要するにここでは「(いわゆる「アライ」のような)意識が高い」マジョリティにとって都合の良い限りでマイノリティとしてクィアを承認するような現行社会に対する猜疑心がある。

また、エーデルマンはその著作『ノー・フューチャー』(2004)所収の論考「未来は子供騙し」で現行社会における自明の「正しさ」とされる「(再)生産の信仰」を「再生産未来主義」と名指し、クィア理論の立場から〈未来=子ども〉の名において「(再)生産」に加担するイデオロギーを批判する。

ここでエーデルマンの批判の矛先は「生産性のない人間は生きる価値がない」という右派的な優生思想のみならず「望ましい未来のために」とか「未来の子どもたちのための連帯」などといったクリシェの下で現行社会の保全に努めつつ「明るい未来」を志す改良主義的なリベラル左派にも向けられることになる。エーデルマンはこうした〈未来=子ども〉のクリシェにメスを入れ、その内奥に潜む社会秩序の絶えざる再生産と保全を肯定する根源的に「保守的」な身振りを剔抉し、異性愛規範に基づく現行社会秩序が暗黙のうちに強制する「(再)生産」に抗い「死の欲動」を積極的に担う者、それこそがクィアであると主張するのであった。

こうしたベルサーニやエーデルマンの議論に代表されるクィア理論の「アンチ・ソーシャル的転回」は例えば同性婚やパートナーシップ制度といった社会改良主義=再生産未来主義的なマジョリティの戦略に対して真っ向から背を向けて孤高なマイノリティとしての矜持を守る態度であるといえるだろう。


6 ばらばらな未来を言祝いでいくということ

もっとも、その後のクィア理論はそこからさらにもう一周回って「ノー・フューチャー」などと言い切ってしまうのはいくらなんでもあんまりなので、やはりここは「アンチソーシャル」を踏まえた上で、それでもなお「ノー・フューチャー」ではない別の仕方での「(複数形としての)クィア・フューチャー」をいま一度考えるべきではないかという問題提起も出ているようだ。

例えば近年において障害学とクィア理論の交差点に立ち現れたクリップ・セオリーの代表的論客の一人であるアリソン・ケイファーは〈子ども=未来〉を顕揚するエーデルマンのいうところの「再生産未来主義」はクリップ・セオリーにも見られると慎重に前置きしつつも、ここから彼女はエーデルマンとは袂を分かち〈未来〉を閉ざすのではなく、今とは異なる〈未来〉を、複数の存在、複数の生き方を肯定し受け入れることの可能な〈未来〉を目指す欲望を思弁する。

またキューバ系アメリカ人のクィア理論家、ホセ・エステバン・ムニョスもまたエーデルマンに異を唱え、むしろクィアこそが〈未来〉を押し開く存在であると主張している。ムニョスは彼の知的源泉の一つであるエルンスト・ブロッホの『希望の原理』に主に依拠しながら、クィアネスとは否定的な現在を超えて未来を共同で想像する営みであるとして、クィア的な未来の「希望」の中に、未知の悦び、異なる存在の仕方、そして新しい世界を見出そうとする。

確かに「アンチ・ソーシャル的転回」は一見するとラディカルで恐ろしく反動主義的な主張のようにみえる。けれども、それは同時にマジョリティがマイノリティを包摂する過程で新たに生じるであろう偏見や分断を危惧する議論でもあり、さらにはクィア・スタディーズにおける基本的視座--差異に基づく運動の連帯、否定的な価値づけの積極的な引き受けによる価値転倒、アイデンティティの両義性や流動性に対する着目--を別の観点から引き受けた言説のようにも思えるのである。

フューチャーでもノー・フューチャーでもない別の仕方での(複数形としての)クィア・フューチャー。未来はひとつではないということ。それぞれが異なるばらばらな未来を言祝ぐということ。いずれにせよ個人のセクシュアリティをめぐる問題は少なくとも「LGBTQ」などといった耳障りの良いフレーズには決して回収されることのないアクチュアルにして特異的=単独的な現実であるといえるのではないか。




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