垂直方向と水平方向
1「思い上がり」の病としての統合失調症
精神病理学者ルートヴィヒ・ビンスワンガーによれば人間とは本質的に「思い上がる存在」であるとされる。我々が生きる生の空間には自身を理想の極みに導こうとする「垂直方向」と、自身の経験や視野を広げていこうとする「水平方向」という二つの方向があり、通常ではこの二つの方向が「人間学的均衡(Anthropologische Proportion)」と呼ばれる適度なバランスを保ちながら拡大・縮小を繰り返しているが、時に人間は己の「水平方向」の広がり具合に不釣り合いなまでに「垂直方向」が肥大化することがある。
このような「垂直方向」の肥大化をビンスワンガーは「思い上がり(Verstiegenheit=奇矯な理想形成)」と呼んだ。けれども「水平方向」への均衡を欠いた「垂直方向」への「思い上がり」は、あたかも蝋の翼で太陽に接近しようとしたイカロスの如く最終的には墜落=挫折してしまう運命にある。そして、こうしたビンスワンガーにおける「思い上がり」という空間的モチーフは統合失調症患者の発症状況の綿密な観察によって得られたものであった。
統合失調症は2002年までは「精神分裂病」と呼ばれていた精神疾患である。主な症状として「妄想」「幻覚」のような陽性症状と「意欲低下」「感情鈍麻」「無為自閉」といった陰性症状がある。これらの症状のほかに患者の社会的、職業的生活における機能のレベルが低下していること、そして、この症状がある程度の期間(6ヶ月以上)持続しており、他の障害ではうまく説明できない場合、統合失調症と診断される。
妄想や幻覚を呈する病が存在することは古代ギリシアの時代から既に知られていた。しかし統合失調症の典型例がはっきりと示された記録が残っているのは19世紀初頭だと言われている。19世末に近代精神医学を確立したドイツの精神科医エミール・クレペリンは当時「緊張病」や「破瓜病」などと呼ばれていた精神機能が急速に衰退する一連の病を「早発性痴呆」という一群へとまとめ上げた。また20世紀初頭、スイスの精神科医オイゲン・ブロイラーはクレペリンのいう早発性痴呆を「スキゾフレニア」と呼称した。ここでいう「スキゾ」は「分裂」で「フレニア」は「精神」という意味である。そして、このような統合失調症の特徴的な症状である「妄想」と「幻覚」は以下のような形で出現する。
2 統合失調症における妄想と幻覚
統合失調症の多くは「妄想気分」や「妄想知覚」と呼ばれる前駆期を経て発病に至る。まず「妄想気分」とは目に見えるこの世界は何も変わっていないにも関わらず「何か」が変わったと感じる体験をいう。次に「妄想知覚」とは正常な知覚に対して誤った意味づけを与える二段構成の体験をいう。
これら統合失調症の発病時に現れる妄想体験の特徴として「原発性(先行する心的体験から導出されない体験であること)」「無意味性(意味のわからない体験であること)」「無媒介性(患者にとって直接的無媒介的な体験であること)」「圧倒性(圧倒的な力を帯びた異質な体験であること)」「基礎性(のちの症状進展に対する基礎となる体験であること)」が挙げられる。この点、ドイツの精神病理学者カール・ヤスパースはこれらの体験を「要素現象」と総称している。
そして以後その患者はいわば「妄想的人生」を生きていくことになる。このような経過をヤスパースは「病的過程/過程」と呼ぶ。そして「病的過程/過程」が始まることによってその人の人生が折れ曲がり妄想人生へと展開した時点を「生活史上の屈曲点」と呼ぶ。
この点、統合失調症における妄想とは、そのほとんどが多かれ少なかれ「関係妄想」としての性質を有している。言い換えれば「自分だけが何かに関係している」と確信する「思考の異常」こそが、統合失調症の妄想の基本的な構図を規定しているということである。
そして統合失調症における幻覚とはほぼ「幻聴」のことをいう。もっとも統合失調症における幻聴は最初から他者の声として現れるのではなく、むしろ頭の中にたくさんの雑念(思考や意志)が湧き始めるという体験として現れる。これを「自生思考」と呼ぶ。
自生思考の段階ではまだ思考の自己所属性が保たれているが、この自生思考が他者化されると「他者の声が外から聞こえてくる」という明確な幻聴へ至る事になる。すなわち幻聴は一般に「感覚の異常」と考えられがちだが、妄想と同様に「思考の異常」という事である。
このような幻聴の種類としては「機能幻覚」「対話性幻聴」「命令幻聴」などが挙げられる。「機能幻覚」は現実の生活音の中から何かしらの幻聴が聞こえてくる体験である。かの有名な「症例シュレーバー」においても「機能幻覚」の例が見出される。「対話性幻聴」は「声同士が対話する形」と「声と患者が患者が対話する形」という二つのパターンが存在する。「命令幻聴」は自分の主体性を簒奪するような命令を患者に下す幻聴をいう。
3 統合失調症の基本障害としての「自然な経験の非一貫性」
このように統合失調症といえば一般的に「妄想」と「幻覚」の二大症状がまずは思い浮かべられる。もっとも統合失調症の概念を基礎付けたクレペリンやブロイラーは知性、思考、感情、意志といった精神機能の衰退ないし分裂を統合失調症の特異的な症状として考えており「妄想」や「幻覚」といった症状はむしろ統合失調症以外でも見られる非特異的な症状として考えていた。
すなわち、統合失調症においては、多くの人にとってはある意味で当たり前な「世界に棲まう」という根本的な様式に何らかの障害があり、そこから派生して様々な幻覚や妄想といった症状が出現しているということである。
この点、ビンスワンガーは統合失調症を人間学的視座から徹底的に究明しようとする中で、病者は病前から世界の中の事物のもとに安心して逗留することができておらず、その状況に勝利するか敗北してしまうかという、いわば二項対立的な危機に陥ると考えていた。このような統合失調症の基本障害をビンスワンガーは「自然な経験の非一貫性」と呼んでいる。
この危機的状況において病者が勝利するために選択するのが「思い上がり」という墜落=挫折を運命づけられた理想形成である。病者は世界の水平方向において安らいで住まうことができておらず、垂直方向において文字通り命懸けの跳躍を行うが、その跳躍は破滅的な急降下へと帰着しまい、病者は自らが高く掲げた理想と矛盾したり理想を拒否したりするような側面に晒され、己の主体としての座を他者に明け渡してしまうことになる。
すなわち、統合失調症という病理はビンスワンガーのいうところの「人間学的均衡」が崩れ「水平方向」が痩せ細る一方で「垂直方向」が過剰に肥大化してしまっている状態にあるということである。
4 ハイデガー哲学における頽落と先駆的覚悟性
このようなビンスワンガーによる垂直方向の特権化は彼が自身の精神病理学理論を構築する際に参照した哲学者マルティン・ハイデガーの『存在と時間』(1927)に由来している。
ハイデガーによれば我々は「現存在(世界内存在)」として世界の中に投げ込まれており、そこで遭遇する他者である「共存在」に「顧慮的気遣い」を行いながら関係することになる。ここでいう「顧慮的気遣い」には、他者を文字通りに気遣い、思いやったり愛したりする態度のみならず、無視したり罵倒したりする態度も含まれる。そして、こうした「気遣い」には二通りの気遣いがハイデガーが「非本来的」「本来的」と呼んでいる「現存在」のあり方に対応している。
この点、ハイデガーのいう「非本来的」なあり方とは、もっぱら常識的で世俗的な「平均的日常性」を生きる態度である。例えば家族、恋人、友人といった「世人」と面白可笑しく「空談」することで、あるいは美味しいものを食べたり、旅行したりして「好奇心」を満たすことで、我々はやがて到来する「死」から目を背け「生」の安寧を得ている。これはハイデガーに言わせれば「頽落」と呼ばれる「非本来的」なあり方である。
これと反対にハイデガーのいう「本来的」なあり方とは、我々が己が時間との関係の中で本来的な将来としての「死へと関わる存在」であることを了解する「先駆的覚悟性」と呼ばれる態度である。そしてハイデガーによれば、この「先駆的覚悟性」の中でこれまで共同体の中で歴史的に継承されてきたものが伝承される「遺産の伝承」が生じるとされている。
このようにハイデガーにおいては「水平方向」を「非本来的」なものとして価値下げする一方で「垂直方向」を「本来的」なものとして優位に位置付けている。そして、こうしたハイデガーの垂直方向重視のパラダイムをビンスワンガーもまた引き継いでいるということである。
5 症例イルゼ
以上のように要約されるビンスワンガーの統合失調論は以降の精神病理学の思考を決定的に特徴づけることになった。それは端的にいえば病者の棲まう人間学的空間が自分と超越的他者のあいだの垂直方向の関係で飽和する「垂直方向の精神病理学」といえる。しかし、このような垂直方向を重視する思考は統合失調症という精神疾患を特権化する「統合失調症中心主義」を招く一方で肝心の「治癒のための理論」としては不十分であったといえる。
事実、ビンスワンガーの主著『精神分裂病』(1957)では綿密な観察に基づく五つの症例が取り上げられているが、そのうちの四症例が治癒に至っていない。エレン・ウェストは服毒自殺によって命を落とし、ユルク・ツュントはおそらくその一生を精神病院で終えている。また、ローラ・ヴォスは退院はできたもののその妄想は慢性化し、シュザンヌ・ウルバンは姉によって半ば無理やり退院させられたものの人格水準の低下が著名であったといわれている。
もっとも、その一方で同書が取り上げる五つの症例のうちで唯一、治癒に至ったとされる症例がいわゆる「症例イルゼ」である。この症例の概要は次のようなものである。
イルゼという女性患者は幼少期から父に対して熱狂的な愛情を持ち、彼を偶像的に崇拝していた。しかし彼女の父は母に対して日常的に家庭内暴力を働いており、イルゼはそのことに反感を持つようになった。
父に対する愛情と反抗というこの解決不可能な矛盾がイルゼの生を不調和状態に陥らせ、彼女は世界の中に自然に逗留することができず「自然な経験の非一貫性」に苦しむようになる。そして彼女は、この不調和状態を燃えさかるかまどの中へ右手をつっこむことによって一挙に解決しようとするのである。
イルゼのこの「思い上がった」行為は、確かに父の母に対する家庭内暴力を一時的に停止させはするものの、状況にそぐわない突飛なものであったがゆえにその効果は一時的なものでしかなかった。そして保養所へと入院した後、幼少期から彼女の人生を規定していた「父への愛」というテーマと、父のために手を焼くという「自己犠牲」のテーマがイルゼ自身を圧倒するようになる。
「父への愛」と「自己犠牲」はかつては「自分が父を愛する」「自分が犠牲となり父の家庭内暴力をやめさせる」という能動的なものであったが、今や受動的な形を取り「他者たちが自分を愛する(そうであるがゆえに自分も他者たちを愛さなければならない)」という形をとる恋愛妄想と、自ら能動的に他者(父)の犠牲になるのではなく受動的に他者たちの犠牲になるという関係妄想として結実している。
しかしイルゼは比較的早期に治癒し、その後、統合失調症を再発することはなかった。この点、ビンスワンガーによれば、それは彼女が垂直方向の「理想(父)」に向けた思い上がった理想形成をやめて、その代わりに心理カウンセラーとして水平方向の「隣人」への援助を行うようになったためであると述べている。
もっともビンスワンガーは統合失調症の発病と経過を「思い上がり」という観点から把握することを通じて垂直方向を特権化する一方で肝心の治癒に関わると想定される水平方向についてはほとんど議論を深めることはなかった。
6 水平方向の精神病理学とドゥルーズ哲学
こうした中で精神病理学者の松本卓也氏は「症例イルゼ」に伏在していた「水平方向の精神病理学」の構想を提示する。先述したようにビンスワンガーの「垂直方向の精神病理学」はハイデガーの哲学が基盤となっている。これに対して松本氏が「水平方向の精神病理学」において参照するのがフランスのポスト構造主義を代表する哲学者ジル・ドゥルーズである。ハイデガーが20世紀前半を代表する哲学者の1人であったならば、ドゥルーズは20世紀後半を代表する哲学者の1人である。
ドゥルーズはその主著の一つである『意味の論理学』(1969)において我々の生きるこの世界を「高所(真/偽の場)」「深層(物体の場)」「表面(意味=出来事の場)」からなる三層構造で捉えている。そしてドゥルーズはこの三層構造にそれぞれプラトン主義、ニーチェ主義、ストア哲学を対応させている。
この点「高所」への上昇と「深層」への下降は垂直方向への運動といえる。これに対して、ドゥルーズが「表面」と呼んでいるのは「高所と深層から独立し、高所と深層に対抗する」ものでありいわば「反・垂直方向」の哲学が思考するフィールドである。松本氏は『意味の論理学』が「高所」や「深層」ではなく「表面」の追求に向かったものであることを考慮すればドゥルーズの思想ははっきりと「反・垂直方向」に向かうものであると考えられるとする。
また晩年のドゥルーズの著作『批評と臨床』(1993)ではプラトン主義における神々の言葉の吹き込みによって生じる「神的な狂気」と神々とは関わりのない人間的な狂気である「病気としての狂気」の区別を反転させ、むしろ神々によって支えられた垂直方向の狂気こそを「病気としての狂気(思い上がった狂気)」であるとして、反対に神々によって裏打ちされていない水平方向の狂気こそが「健康としての狂気」であると主張した。
なお『意味の論理学』においてドゥルーズは「深層」を体現する作家としてアントナン・アルトーを位置付け「表面」を体現する作家としてルイス・キャロルを位置付けている。同書の第13セリーの最後でドゥルーズは「キャロルの全てを引き換えにしても、われわれはアントナン・アルトーの一頁も与えないだろう」と述べアルトーを称賛する一方で、その直後、すぐさまに「(キャロルが描く)表面には、意味の論理のすべてがある」とも述べている。
そして『批評と臨床』においてドゥルーズはキャロルは「表面」の言語を獲得することで「深層」から華麗に逃れることができたといい、こうした「表面」の言語によって書かれた文学こそが、文学の描く世界のすべてになりうるとまで断言しているのである。
7 オープンダイアローグ
もっとも、松本氏は水平方向を重視するとしても垂直方向が無効化されるべきではないと述べ、むしろ水平方向の重要性が再確認されることで垂直方向と水平方向の新しい「人間学的均衡」が生まれる可能性があるという。ここで氏が取り上げるのが最近注目を集める臨床実践である「オープンダイアローグ」です。
フィンランドの西ラップランド地方トルニオ市にあるケロプダス病院のスタッフを中心に開発された「オープンダイアローグ(OD)」は、従来、薬物や入院が必須と考えられていた急性期の統合失調症を「対話」の力で寛解に導くことで精神医療に大きなインパクトをもたらした。
ODの実践は一見、極めてシンプルである。クライアントやその家族から電話などで支援要請を受けたら24時間以内に治療チームが結成され、クライアントの自宅を訪問。治療チームと本人、家族、友人知人らの関係者が車座になって対話が行われる。
この対話においてはすべての参加者に平等に発言の機会が与えられる。ミーティングは1回につき1時間から1時間半程度。ミーティングの最後にファシリテーターが結論をまとめる。本人抜きではいかなる決定もされないことも重要な原則である。何も決まらなければ「何も決まらなかったこと」が確認されることになる。このミーティングはクライアントの状態が改善するまで、ほぼ毎日のように続けられる場合もある。
このようにODの特色は治療者側が「チーム」で介入する点にある。チームは精神科医、看護師、臨床心理士などで構成されるが、チーム内での序列はなく、皆が自律したセラピストとして対等の立場で対話に加わる。
そして、今後の治療方針を決める治療者同士の話し合いも患者側の前で行われる。これは「リフレクティング」と呼ばれる家族療法家のトム・アンデルセンによって開発された技法である。診断、見通し、治療方針に関する議論を全て患者の前で開示することで、さらなる対話が促進され患者の意思決定も容易になるということである。
こうしてODでは対話の場に参加者の言葉が投入されることで、自律性的に作動する対話システム(対話クラウド)が形成されることになる。対話システムが作動する目的はその作動それ自体がであり、こうした作動の結果として、患者の中で「新しい現実」が創出され、その副産物、ないし廃棄物として症状の改善や治癒が降ってくるというイメージである。
松本氏によればODは「専門家や患者といった単一の声(モノフォニー)を持つ人物が主体の座を占めることに反対し、多数的な声(ポリフォニー)が鳴り響く空間へと主体を溶解させることを企図するという意味で、反-主体的ないしポスト-主体的な実践なのである」ということになる。
もっとも氏はODは垂直方向の運動すべてを否定するような実践ではなく、むしろ、ODにおいて重要とされる対話には全ての参加者の間で行われる「水平のダイアローグ」と、それによって触発された個人での内部での「内なる声」との「垂直のダイアローグ」の二つがあり、この二つの方向の協働が重要であるという。
こうしたことから、松本氏は水平方向における過剰さによる精神医療の平準化やアルゴリズムによる支配を警戒しつつも、現在の精神病理学に必要なことはこれまで注目されてこなかった水平方向の理論を引き出し、そこから新たな「人間学的均衡」としての治療の理論をつくることではないかと述べている。
8 水平方向の精神病理学の可能性
そして、このような松本氏が提唱する「水平方向の精神病理学」における思考は統合失調症論以外のメンタルヘルス一般のケア論にも拡大して適用することができるように思える。
例えばひきこもり支援の専門家として知られる精神科医の斎藤環氏は思春期や青年期に多く見られる自己愛の否定的な発露として「自傷的自己愛」という概念を提唱している。
斎藤氏は精神科医として、30年以上に及ぶ臨床経験に基づき「ひきこもり」を「困難な状況にあるまともな人」とみなすことを提唱している。そして往々にして「ひきこもり」の当事者は、こうした「まとも」であるがゆえに現在の状況が家族の負担になっており世間的な価値観からも批判される状態にあることをよく自覚しており、その結果、彼らは「セルフスティグマ(自分は無価値な人間であるというレッテルの内面化)」を自身に貼り付けてしまい、こうした状況での周囲からの励ましの言葉はしばし逆効果となることがある。
そして斎藤氏は「ひきこもり」の人々に限らず「自分が嫌い」な人たちというのは、自己愛が弱いのではなくむしろ自己愛が強いのではないかと述べている。つまり、彼らの自己否定的な発言は自己愛の発露としての自傷行為なのではないかということである。その根拠の一つとして氏は彼らが自分自身について、あるいは自分が社会からどう思われているかについて、いつも考え続けているという点を挙げている。だとすれば、それはたとえ否定的な形であり自分に強い関心があるという、紛れもなく自己愛の一つの形といえる。こうした逆説的な感情こそが斎藤氏のいうところの「自傷的自己愛」である。
この点、斎藤氏は自傷的自己愛の歪さを「プライドは高いが自信がない」という端的な言葉で表現している。ここでいう「プライド」とは「かくあるべき自分(自我理想)」へのこだわりのことをいい「自信」とは「今の自分(理想自我)」に対する無条件の肯定的感情のことをいう。
これはまさにプライド=垂直方向が肥大化して自信=水平方向が痩せ細っている状態といえる。それゆえに自傷的自己愛の修復においてもやはりまた、垂直方向と水平方向の「人間学的均衡」が必要になってくるといえるだろう。
また、このような垂直方向と水平方向の二つの相を日本の現代思想シーンの中に位置付けてみると、それは大陸哲学と分析哲学の相であり、また精神分析と認知行動療法の相であり、あるいは否定神学システムと郵便=誤配システムの相であり、同時にアイロニーとユーモアの相であり、さらにはセカイ系と日常系の相であるといえる。こうしてみると人文知一般を横断的に思考する上でも垂直方向と水平方向という二つの相は極めて強力な参照枠となり得るようにも思われる。
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