観光客・家族・訂正可能性
1 動員の革命とポピュリズム
「動員の革命」という言葉に象徴されるように2010年代とはSNSを活用した「運動」の時代でもあった。2010年から2011年にかけて起きたいわゆる「アラブの春」と呼ばれるアラブ世界における大規模反政府デモにおいてはSNSが大きな役割を果たした。また2014年に起きた台湾の「ひまわり運動」や香港の「雨傘運動」といった学生運動もSNS抜きには語れない。そして日本においてもSNSは2011年の東日本大震災と福島第一原発事故を契機として急速に普及し、2010年代中盤には「SEALDs」のような新しいデモの形を生み出した。
こうした「運動」の時代を牽引した力が「ポピュリズム」である。SNSでは地域や職場のしがらみを離れて同じ主義主張を持つ「類友」を簡単に見つけられる。自然に保守は保守で集まってリベラルはリベラルで集まることになる。
しかし「類友」ばかりが集まると、あたかも自分の声が反響するかの如く自分と同じ考えの意見ばかりが聞こえてくる「エコーチェンバー」に陥ってしまう。また自分の好みに合わせた情報の「泡」に囲まれる「フィルターバブル」が形成される。加えて同じ考えを持つもの同士が話し合えば主義主張はどんどん先鋭化していき「フェイクニュース」や「陰謀論」の温床となる。
けれども、このような類友化によって「ポピュリズム」は活気付いた。そしてインターネットでは「類」ではない人間は「友」とする必要はなく、むしろ「敵」となる。すなわち、ポピュリズムは人の部族主義的な本能を利用して世界を「友」と「敵」という二項対立で単純化してしまうのである。
2「友」と「敵」に対する第三項としての「観光客」
もっとも、このようなポピュリズムによる「友」と「敵」の峻別はある面では「政治」の本質的な条件ともいえます。20世紀前半のドイツの法学者カール・シュミットは政治とは本質的に「友」と「敵」の対立を基礎として敵を殲滅する行為なのだとする友敵理論を主張した。すなわちシュミットのいう「政治」とは共同体の境界を定め、外部を排除する行為ということである。
これに対してもっぱら現代思想の領域ではこうしたシュミットの友敵理論を批判し「友」でも「敵」でもない第三項として「他者」の存在を擁護しようとした。この点、東浩紀氏は『観光客の哲学』(2017)において、こうした「他者」を「観光客」という概念で捉え直す議論を展開している。
例えばシュミットに従えば古い小さな村において住民は「友」でよそ者は「敵」ということになる。しかしその村が観光地に変貌し、毎年住民の数倍の数の観光客が訪れるようになったとする。観光客は村を通り過ぎていくだけで、住民と一緒に村の未来を作るわけでもなく、むしろ大騒ぎしたりゴミを残したりと迷惑をかける存在でもあるが、その一方で経済的には村に恩恵を与えてくれるし、新しい住民を連れてきてくれるかもしれない。同書はこのような観光客の中途半端さをまず肯定的に捉えるところから出発する。
3 近代哲学と観光客
『観光客の哲学』はまず、その第1章において同書の企図が明らかにされる。「観光客の哲学」と銘打っているものの同書は現実の観光産業の実態を紹介する本でも観光客の心理を分析する本でもない。同書は「観光客」をあくまで哲学的な概念として記述していく。そしてそれは哲学の伝統的なテーマである「他者」の問題を「観光客」という言葉でいわば裏口から更新する試みであり、その狙いは第一にグローバリズムにおける新たな思考の枠組みを作ることにあり、第二に人間や社会について必要性(必然性)からではなく不必要性(偶然性)から考える枠組みを提示することにあり、第三に「まじめ」と「ふまじめ」の二項対立を超えたところで新たな知的言説を立ち上げることにあるとされている。
第2章においては従来の読者向けに本書と東氏の過去の仕事との接続が図られる。先述のように『動物化するポストモダン』の著書として知られる氏は現在でもオタク系サブカルチャーに詳しい批評家というイメージが流通している。オタクと観光客。両者は一切つながりがないどころかむしろ水と油のようにも見えるが、氏はオタク系サブカルチャーにおける「二次創作」と本書のいう「観光」は原作あるいは観光地から自分達の好むイメージだけを切り出して消費するという点で極めて似ていると指摘する。こうしたことから原作者と二次創作者の関係を住民と観光客の関係とパラレルに考えるのであれば氏のサブカルチャー論は容易に観光客論に接続されることになる。いわば二次創作者はコンテンツの観光客であり、観光客とは現実の二次創作者であるということである。
第3章からは本格的な哲学の議論が開始される。本章で氏は社会契約論の思想家として知られるジャン=ジャック・ルソーの再読から抽出した「人間は社会などつくりたくないにもかかわらず、社会を作ってしまうのはなぜか」という問いを解く鍵が「観光客」にあるとして、ルソーと同時代の哲学者であるヴォルテールとイマヌエル・カントの著作の読解を通じて「観光客」を「成熟した市民→成熟した国家→成熟した国際秩序」という単線的ないし最善説的な歴史へ抵抗する存在であると位置付ける。
次にこのような観光客の前に立ち塞がる「壁」として氏はシュミットが提唱した友敵理論とその背後にあるヘーゲル哲学を取り上げ、国家の成立と人間の成熟が不可分の関係にあることを明らかにした上で、シュミットと同時代の思想家であるアレクサンドル・コジューヴとハンナ・アーレントを参照し、彼ら3人を共に「動物化」する社会(大衆消費社会)における「人間」を問い直した思想家として位置付ける。
すなわち、ここでいう「人間」とはシュミットによれば政治的な存在であり、コジューヴによれば闘争的な存在であり、アーレントによれば公共的な存在であるとされる。こうした20世紀人文知の人間観からすれば「観光客」など政治の外部で「ふわふわ」している非政治的で動物的な存在ということになる。もっともグローバリズムが加速する今日においてこうした20世紀人文知が想定する人間観は暗礁に乗り上げている。そこで、本書は20世紀人文知の敵とも言える「観光客」について根源的に思考することによってその限界を乗り越えようとする。
4 二層構造とマルチチュード
第4章ではいよいよ観光客の哲学の輪郭が明らかにされる。まず本章で氏はかつてのようなネーション(国民国家)という単位で政治と経済を統合する近代的なナショナリズムが失墜しグローバリズムが加速する現代をナショナリズムの層(人間の層)とグローバリズムの層(動物の層)に政治と経済がそれぞれ割り振られて併存する「二層構造の時代」であると位置付けた上で、かつての近代的なナショナリズムの思想的表現がリベラリズムだとすれば、現代におけるナショナリズムとグローバリズムの思想的表現がそれぞれコミュニタリアニズムとリバタリアニズムであるという。
そして、このような世界観を前提に本書はアントニオ・ネグリとマイケル・ハートが『帝国』(2000)において提示した「マルチチュード」の概念を手がかりとして観光客の哲学への理路を開く。ネグリたちは「国民国家の体制」から「帝国の体制」への移行という世界観を前提に「帝国の体制」から生成されるグローバルな市民運動を「マルチチュード」と呼んだ。本書はこの概念をある程度は評価しつつも、ネグリたちによるマルチチュードの規定はあまりにもあいまいで時には神秘主義的であるとして、観光客の哲学はこの弱点を回避しなければならないという。
第5章では観光客の哲学がひとまず完成する。本書は『存在論的、郵便的』の議論に依拠してネグリたちのいうマルチチュードを「否定神学的マルチチュード」と位置付けた上で、観光客とは「郵便的マルチチュード」であるという。本書によれば「否定神学」とは存在しえないものとは存在しないことによって存在するという逆説的な修辞を指しており、これに対して「郵便」とは存在し得ないものは端的に存在し得ないが、さまざまな「誤配(コミュニケーションの失敗)」の効果で存在しているかのような効果を及ぼすという現実的な観察を指すという。
すなわち、ネグリたちのマルチチュード(否定神学的マルチチュード)の連帯とは連帯が存在しないことで存在するとされていたが、観光客(郵便的マルチチュード)の連帯とは絶えず連帯が失敗することで事後的に生成し、結果的にそこに連帯が存在するかのように見えてしまうということである。この両者の性格の相違を本書は端的に前者がコミュニケーションなしに連帯するのだとすれば、後者は連帯なしにコミュニケーションすると述べている。
ここから本書はネットワーク理論を参照して「国民国家の体制」と「帝国の体制」はそれぞれ「スモールワールド(大きなクラスター係数と小さな平均距離)」と「スケールフリー(次数分布の偏り)」に規定された二層構造として併存しており、この二層構造の時代における抵抗の起点としての観光客とは帝国の外部でも内部でもなく、むしろ帝国の外部との「あいだ」に、すなわち、スモールワールドとスケールフリーを同時に生成する「誤配=つなぎかえ」の空間そのものの中に位置づけることができるのではないだろうかと述べる。そしてそれは本章の最後で述べられているように「社会」を生み出す「憐れみ」の場所であるともいえる。
5 家族と社会
そして同書は「観光客」のアイデンティティを「家族」という言葉に求めている。同書は「家族」の構成原理として「強制性」「偶然性」「拡張性」の3つを挙げている。
人は皆何かしらの形で「家族」に属しているが、けれどもその「家族」は選ぶことはできず、生まれるにしろ育てられるにしろ、家族の構成員は一方的に押し付けられる(強制性)。そしてその「家族」の選択に必然的な理由はない(偶然性)。けれども「家族」の境界は実に柔軟である。歳月が流れると「家族」の形も変わる。「家族」とはある視点から見れば閉鎖的で抑圧的な共同体であるが、別の視点で見れば開放的で自由な共同体である。家族の構成原理はこのように調和しない3つの性格が共存しているのである。
この点、従来の哲学は「家族」を否定し続けてきた。それこそプラトン以降の哲学史においては「閉じられた家族」という私的な領域の外部に「開かれた社会」という公的な領域があると信じられてきた。
けれども「閉じられた家族」と「開かれた社会」という区別はそれほど明瞭なものではない。例えば人類学者エマニュエル・トッドいみじくも明らかにしたように、共産主義が共同体家族のイデオロギーでしかなく、自由主義もまた絶対核家族のイデオロギーでしかなかったのだとすれば、20世紀における冷戦構造とは所詮のところ、形態を異にする「家族」の間の争いでしかなかったということになる.
閉じられた家族から開かれた社会へ。このような発想は確かに直感的でわかりやすいものがある。けれども人はその社会なるものについて結局のところ特定の家族形態に頼ることなく想像したり議論したりすることができないのかもしれない。ある意味で人はどこまでも「家族」から逃れられることができないともいえる。
6 言語ゲームと家族
そして『観光客の哲学』が提示した「観光客」と「家族」という二つの鍵概念は同書の続編となる『訂正可能性の哲学』において連携されることになる。
同書ではルートヴィッヒ・ウィトゲンシュタインの「家族的類似性」という概念を参照して「家族」の再定義が行われる。周知の通りウィトゲンシュタインの哲学は『論理哲学論考』(1922)に代表される前期と『哲学探究』(1953)に代表される後期に大別される。前期の彼は言葉は世界を記述するためにあると考え、だから全ての文=命題はその構造を分析して世界との対応関係を定めればその真偽が定まるはずだと主張した。
ところが後期になると彼は人は言葉を使ってゲームをしているだけに過ぎないと考えるようになった。『哲学探究』はそのような状況を「言語ゲーム」と呼ぶ。そして彼はこの「言語ゲーム」においてプレイヤーは自分がいったい何のゲームをプレイしているか理解しないままにゲームをプレイしていると主張した。
このようなウィトゲンシュタインの主張は一見すると恐ろしくラディカルに聞こえるが、日常的にはありふれた話ともいえる。東氏は次のような例を持ち出している。ある人が恋人に向かって愛の言葉を囁いている時、その人はいま「愛のゲーム」のただ中にいると思い込んでいるはずである。けれども、そこには常に第三者が現れて、実はおまえは今までずっと別のゲームをプレイしており、相手は本当は恋人でもなんでもなく、おまえの愛の言葉は機能せず、おまえはずっと他人にハラスメントをしていたのだと非難される可能性が付きまとっている。
愛のゲームからハラスメントのゲームへ。人はみな言葉を使って何かしらのゲームをしている。そこでは複数のゲームが重なり合っている。そのためあるゲームをプレイしていたつもりがいつの間にか別のゲームの中に入り込んでしまうこともある。これがヴィトゲンシュタインが考える「言語ゲーム」である。そして彼はこの複数の言語ゲームの間に共通の本質はなく、むしろその本質の欠如こそが重要だと主張した。
そしてここで持ち出されるのが「家族的類似性」という概念である。ウィトゲンシュタインのいう「家族的類似性」とは例えば父と母と息子と娘からなる4人の家族がいたとして、父と息子は背格好が似ていて、父と娘は目元が似ていて、母と息子は口元が似ていて、母と娘は話し方が似ているため、4人が同じ家族であることは明らかだけれども、その全員に共通する特徴を取り出すことはできないという家族の性質を指している。
このような「家族的類似性」は『哲学探究』において「言語ゲーム」が孕む厄介な性質を包括的に記述するためのほとんど唯一の比喩として登場する。人はみな言葉を使ってゲームをしている。そこでは複数のゲームが重なり合っている。そしてその複数のゲームは「家族」を形成している。だからこそ時に発話者は愛のゲームからハラスメントのゲームに自分でも気がつかないまま移動してしまうことがあるわけである。
7 クワス算の逆説
そしてこのウィトゲンシュタインの直感的な洞察を緻密に理論化した人物が言語哲学者ソール・クリプキである。クリプキは『ウィゲンシュタインのパラドックス』(1982)において以下のような思考実験を行った。あなたは「+」という記号を加算の記号として用いており、そこで「68+57」という数式に初めて出会ったとする。当然のことながら、あなたは加算の法則に従い「125」と答えを返すだろう。
ところがここでクリプキは1人の懐疑論者を連れてくる。この懐疑論者の中で「+」という記号は加算を意味する記号ではなく実は「クワス」というまったく別の演算を意味しており、クワス算はあるところまでは加算と同じだけれども、その解が125以上の場合は総じて5になるため、あなたは「125」ではなく「5」と答えるべきだったと主張する。
この懐疑論者の主張を反駁することは原理的には不可能である。ここではウィトゲンシュタインが発見した「自分が何のゲームをプレイしているのかわからないまま、ただプレイだけを続けている」という言語ゲームの性格が自然言語のあいまいさに起因するものではなく科学的な知一般の条件であることが示されている。
しかしながら現実問題としてクワスを主張する懐疑論者が仮に現れたとしてもその主張は訂正されることになり、仮に訂正不可能であれば彼は排除される。なぜならば大多数の人が「68+57」は「125」になるという規則を信じる「加算の共同体」に属しているからである。裏返せば、あらゆるゲームはそのプレイの成否を判定するためプレイヤーと観客から構成される共同体を必要とするということである。
8 観光客・家族・訂正可能性
先に規則があり、その規則を理解するプレイヤーが共同体を形成するのではなく、むしろ先に共同体があり、その共同体がプレイヤーを選別することで規則が確定するということ。クリプキはウィトゲンシュタインが提示した逆説をこのような裏返った共同体論によって解決した。
もっともクリプキのいう「訂正」は共同体からプレイヤーに向けられるだけでなく、逆にプレイヤーから共同体に向けられる可能性も考えられるはずである。すなわち、本来は排除されるはずのプレイが時代の移り変わりに従ってプレイヤーの共同体に認められ正規のプレイに代わることがありうるということである。すなわち、ここで「訂正」と呼ばれている作用は共同体の内部と外部の境界を揺るがし、その成員を拡大する契機としても捉えられている。
そこで同書は共同体の規則は静的に確定したものではなく、プレイヤーたちが繰り出すプレイについての成否判断に付随する「訂正」の作業こそが規則と共同体を共に生み出し、ゲームのかたちを動的に更新していくと考えるべきではないだろうかという。
そしてウィトゲンシュタインの提示した言語ゲームにおける「家族的類似性」という言葉はまさにこうした規則が変わりプレイヤーが変わり何もかもが変わったとしても、それでもなおそこに「同じゲーム」であり続けるという共同体の在り方とぴたりと重なり合うのである。
こうしたことから同書は「家族」の概念を特定の固有名の再定義を不断に繰り返すことで持続する一種の解釈共同体だと定義する。すなわち「家族」とはある面では終始一貫して「同じもの」に閉じられた共同体ではあるけれども、ある面ではあらゆる「訂正可能性」に開かれている共同体であるということである。
こうして「家族」という共同体における「強制性」「偶然性」「拡張性」という一見、調和しない3つの性格の奇妙な共存は「訂正可能性」というメカニズムから統合的に把握される。
人は皆「家族」という名の言語ゲームの中にいかなる同意もなく新しいプレイヤーとして生まれ落ちる。ゲームは既に存在しているのだから参加は強制的で、いかなる必然性もないように感じられる。にもかかわらず規則は常に遡行して訂正可能なので「家族」というゲームは拡張可能性にも開かれている。家族の参加者は「同じ家族」の体裁を保ったまま内実をいくらでも変更できる。このようにみると「家族」の構成原理は「言語ゲーム」というコミュニケーションの本質から真っ直ぐに導き出されたものと考えることができる。
また「観光客」の中途半端さも「訂正可能性」から基礎付けられる。あらゆる規則は原理的に訂正可能性にさらされている以上、そもそも人はどうやっても全ての問題に中途半端にしか関わることができない。だからそこ逆に全ての人は完璧には語れない問題についても中途半端なコミットメントに乗り出す勇気を持つべきではないかと東氏はいう。
そして「観光客」のもたらす「誤配=つなぎかえ」とはまさしく「訂正可能性」である。共同体はこれまでプレイヤーの間で共有してきた規則のネットワークがランダムな「誤配=つなぎかえ」によって半ば強制的に訂正されることで持続性を獲得することになる。
このようにウィトゲンシュタインとクリプキの言語哲学を使って明らかになったコミュニケーションの条件としての「訂正可能性」は「家族」の構成原理を生み出すとともに「観光客」の中途半端さを生み出すものであった。
さらにいえば東氏が1998年に世に放った『存在論的、郵便的』はこのような「訂正可能性」の理論からフランスの哲学者ジャック・デリダのテクストを読み直したものであるといえ、1993年の批評家デビュー以来、東氏の仕事は表面的にみると1990年代のフランス現代思想、ゼロ年代のオタク論、2010年代の観(光)客論と様々に変転していますが、これらの議論は一貫して「訂正可能性」の具体的局面を取り扱ったものとして読むことができる。
こうした意味で『訂正可能性の哲学』はこれまでの東思想のまさしく「総論」に位置する哲学書であったといえる。そして同書に続いてデビュー30周年を記念して公刊された本書『訂正する力』は「訂正可能性」を使った日本社会のリノベーションを提言する一冊であるといえる。
9「訂正する力」と日本社会
「失われた30年」という言葉に象徴されるようにバブル崩壊以後今日に至るまで長きにわたって停滞を続けた日本社会はいまや政治経済における様々な局面で行き詰まりを見せている。このような惨状を前にしてある言説は「リセット」を叫び、またある言説は「ぶれない」ことにこだわっている。
こうした中、同書は「リセット」と「ぶれない」のあいだでバランスをとる「訂正する力」が大事であると説く。同書のいう「訂正する力」とは過去との一貫性を主張しながらも、実際には過去の解釈を変えて現実に合わせて変化する力のことをいう。そして、その核心には「じつは・・・だった」という発見の感覚がある。
人間の行うコミュニケーションには奇妙な性格がある。たとえば子どもが遊んでいるとして、その遊びが「かくれんぼ」だったのがいつの間にか「鬼ごっこ」になり、またそれがいつの間にか別の遊びになっているといったことはよくある話である。
このようにルールが絶えず「訂正」され続けていくという現象は子どもの遊びのみならず、人間の行うコミュニケーション全般において見られる。そして、このような「訂正する力」こそがいまの日本に必要であると本書はいう。
10「空気」を書き換える力
「訂正する力」とは「空気」を書き換える力である。日本社会は「空気」と呼ばれる無意識的なルールに支配されているとよく言われる。この「空気」なるものは皆が他人の目を気にするだけではなく、同時に皆が気にしている当の他人もまた他人の目を気にしているという入れ子構造になっている。
だとすれば、こういった「空気」を変えるためには「空気」から素朴に脱出しようとするのではなく、同じ「空気」の中にいるふりをしてながら、少しずつ違うことをやっているうちにいつのまにか「空気」が変わってしまうというアクロバットをやるしかなく、その「いつのまにか」をどう演出するかという課題に答えるのが「訂正する力」であると同書はいう。
つまり「空気」が支配している国だからこそ、その「空気」が「いつのまにか」変わっているように状況を作っていくことが大事にあるということである。
これはデリダのいう「脱構築」に極めて近い発想である。彼は哲学の伝統的なルールに則っているように見せかけつつ、それを深く追求することによって哲学のかたちを「いつのまにか」変えてしまうという試みをまさに哲学の方法として提示した。
すなわち、ルール(空気)を書き換えるためには既存のルールをひそかに訂正しつつ、その新しさを全面に押し出さずに「いやいや、むしろこっちこそ本当のルールだったんですよ」と主張するような現在と過去を結びつけていくしたたかな両面戦略が必要になるということである。
11「正しさ」を更新する力
また「訂正する力」とは「正しさ」を更新する力である。周知の通り現代は社会のあらゆる領域において「ポリティカル・コレクトネス(政治的な正しさ)」が重視される時代である。もちろん「正しさ」を求めることはとても大切なことであるが、その一方でいまや「正しさ」がまさに他者を「糺す」ための道具としてやや安易に利用されている観も否めない。この人は正しくない発言をしたからみんなで批判しよう、仕事を奪おうという動きは時に「キャンセル・カルチャー」と呼ばれたりもする。
ところで「コレクトネス」という言葉は「コレクト」という動詞の名詞形だが、この「コレクト」は「校閲する」とか「まちがいを正す」などといったまさに「訂正」を意味する言葉である。すなわち、現在の「コレクトネス=正しさ」とは普遍的な規範などではなく、常に「コレクト=訂正」という運動の中で生み出された暫定解でしかないということである。
そうであれば今この時の「正しさ」も5年後には「間違い」になるかもしれないし、逆に今の「間違い」が「正しさ」になるかもしれない。「正しさ」に対しては、そのような距離を持って考えることが大事であり、少なくとも現在の価値観だけを振りかざして、過去の発言や複雑な文脈を持った行為を一刀両断していく行為はむしろポリティカル・コレクトネスの精神に反していると同書はいう。
しかしその一方で「訂正する力」は「歴史修正主義」と一線を画している。ここでいう「歴史修正主義」とは例えば「アウシュビッツにガス室はなかった」とか「従軍慰安婦はいなかった」などといった主に保守派による歴史の捏造を意味する言葉として現在用いられている。この文脈での「歴史修正主義」は過去を忘却し、現実から目を逸らす行為である。これに対して「訂正する力」はむしろ過去を記憶し、現実に向き合う行為ともいえる。
12「喧騒」を生み出す力と「幻想」を創り出す力
哲学とは「時事(時局への対応)」「理論(基本原理の究明)」「実存(生き方の提示)」の3つの領域の連関から成り立っており「訂正する力」もまたこの3つの領域をシームレスにつなげていくと同書はいう。こうした観点からいえば同書の第1章は「時事編」であり第2章は「理論編」であり第3章は「実存編」となる。そして第4章はここまでの議論の「応用編」であり「訂正する力」を使って日本の思想や文化を批判的に継承し、戦後日本の自画像のアップデートを試みる議論が展開されていく。
この点「訂正する力」は「喧騒」を生み出す力でもある。本書の根底には「人は根本的には他者と分かり合えない」という世界観がある。だからこそ人が互いに理解し合う空間ではなく、むしろ互いに「おまえはおれを理解していない」と永遠に言い合う空間をつくることが大事だと同書はいう。
そしてこれは民主主義の問題とも関係している。『訂正可能性の哲学』でも参照されている19世紀フランスの思想家アレクシ・ド・トクヴィルが強靭な民主主義の条件として「喧騒」を挙げたように、民主主義社会とは正解を求める社会ではなく、とにかくさまざまな人々が自分の理屈で好き勝手に「おまえはおれを理解していない」と「喧騒」の中で「訂正」を求めあう社会である。
こうした意味で日本社会とは経済(中小企業)から趣味(同人誌サークル)の領域に至るまで、もともと少人数でわちゃわちゃとやることを好む「喧騒」に満たされた文化を持つ社会であった。そして、そこに「喧騒」があるということはそこには「平和」があるということである。
また「訂正する力」は「幻想」を創り出す力でもある。ここでいう「幻想」とは現実を覆い隠す思考停止ではなく、むしろ現実に向き合って前に進んでいくための道標である。
かつて明治日本は近代化を達成するために天皇親政という幻想を創り出し、戦後日本は経済復興や国際復帰を達成するために平和国家という幻想を創り出した。そして今日における日本社会の機能不全はこのような意味での幻想の機能不全に起因しているともいえる。こうしたことから同書は文化論的な観点から戦後日本における平和主義の「訂正」を提案する。
「空気」を書き換え「正しさ」を更新し「喧騒」を生み出し「幻想」を創り出すということ。過去と現在をつなぎ合わせて未来を照らしだすということ。同書はかつて日本に備わっていた「訂正する力」を今こそ取り戻そうと呼びかける書物である。もちろん本書の個別的な提案に対しては様々な異論もあると思う。けれどもそのような様々な異論が異論として色とりどりにばらばらなままでせめぎ合う社会こそがまさしく友と敵を超えた「訂正する力」に満たされた社会であるといえるのではないか。
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