公共性における嘘と真実
1 ルソーの社会契約と一般意志
フランスの思想家、ジャン=ジャック・ルソーが1762年に公刊した主著『社会契約論』は「一般意志」の理念を提出し、フランス革命に決定的な影響を与えた政治思想の古典として一般には理解されている。しかしこの著作は実際はかなり謎めいた側面を持っている。
ルソーの思想は一般には個人の自由、感情の無制約は発露を称揚するものとして知られている。例えば『人間不平等起源論』では自然状態にいる「野生の人」の自由と幸福を謳い上げる所から始まり『エミール』では子供の内発性を社会の悪から守ることを理想の教育の柱にしている。またルソーは『新エロイーズ』や『告白』といった小説において近代的な恋愛や「私」を創出して文学史におけるロマン主義を準備した。
ところがその一方で『社会契約論』においてルソーは『人間不平等起源論』や『エミール』と共通した人間観を記する一方で、個人の全体への絶対の服従を強調しているようにも見える。すなわち、同書のいう「一般意志」とは人民の意志の統一そのものであり、その定義上決して誤りに陥ることがなく「一般意志」を体現する統治者の命令に人民は無条件に従うべきだとまで断言する。
この点で同書はナショナリズムやラディカルな全体主義の起源の書としても読めてしまうところがある。近代における民主主義の起源はこのような両義的な矛盾に満ちたテクストから生まれているということである。果たしてルソーの思想は現代においていかに理解すべきなのか。
2 特殊意志・全体意志・一般意志
『社会契約論』は全部で四篇に分かれており第一篇では社会契約が、第二篇では一般意志が、第三篇では政府の形態が扱われる。第四篇はこれまでの補足となる。同書の示す論理は以下のようなものである。
ルソーはまず人間は文明以前の自然状態では孤独に生きていたと仮定する。けれどもそれだけでは強い外敵には対抗できない。そこでわたしはあなたに暴力を行使しないから、逆にあなたもわたしに暴力を行使しないでくださいという契約を交わし、みなの暴力を一箇所に集中させて大きな強い集団を、すなわち「社会」を作ることになった。これが「社会契約」である。
この点、ルソーにおいて社会契約とは人民ひとりひとりが「自分が持つ全ての権利とともに自分を共同体全体に完全に譲渡すること」を意味している。そして、そのような「社会契約」が成立した結果、必然的に生まれる集団の意志がルソーにおける「一般意志」である。
ここでいう「集団の意志」とは普通に考えれば個人の意志を集めたものということになりそうである。ところがルソーはこの「一般意志」につづいて「特殊意志」と「全体意志」という概念も導入している。ここでいう「特殊意志」とは個人の意志であり「全体意志」とは「特殊意志」の集まりをいう。つまり個人の意志としての「特殊意志」の集合は「全体意志」でしかなく「一般意志」ではない。
この点「一般意志」と「全体意志」の差異はルソーによれば「公共性」の有無の差異ということになる。すなわち「特殊意志」とは個人の私的な利害でしかなく「特殊意志」が集まった「全体意志」もやはり個人の私的な利害の集合体でしかなく、社会全体の公的な利害を代表することはできない。けれども「一般意志」には「全体意志」と異なり、社会全体の公的な利害を代表する「公共性」が宿るということである。
3 一般意志と革命
それゆえにルソーは「一般意志はつねに正しい」と断言する。ここからルソーは「一般意志」は主権を構成し、社会の統治は「一般意志」に導かれるべきであり、市民は「一般意志」を体現する統治者の命令には絶対に服従しなければならないというような過激な主張を展開した。
極端な話「一般意志」を体現する統治者が市民に向かってお前は死ねと命じたら市民は死ぬことが「正しい」のであり、それを間違いだと思うのは市民の方が「思い違い」をしているからである、とルソーはいう。つまり、ルソーによれば一般意志が特定の個人に死を命じるとき、その人は既に実は自分自身の死を欲しているはずであるということである。こうしたことから同書はしばし全体主義的だといわれるのである。
そして、この「一般意志」の執行機関として「政府」という名の統治機構が設立されることになる。つまり政府は「一般意志」の手足にすぎないということである。これは「一般意志」を実現するための統治機構は必ずしも民主政である必要はないということを意味している。彼にとって重要なのは人民の総意が主権を構成することであり、その主権が具体的に誰によって担われるかはまた別の問題であり、もし仮に人民が望むのであればそれは君主政でも貴族政でも良いということになる。
その一方で人民が産み出したのはあくまで「一般意志」であり特定の統治機構ではない以上、現在の統治機構は「一般意志」の暫定的な執行機関にすぎない。従って、現在の統治機構が「一般意志」に照らし合わせて不適切だと考えれば人民はいつでも別の統治機構へ変更する「革命権」を有している。そして、このような「革命権」の理論がまさにフランス革命を準備することになった。
4 データベースとしての一般意志2.0
このようにルソーによれば個人は目の前の政府や制度とはとりあえず無関係なところで、いつのまにか「社会契約」を交わし「一般意志」なる抽象的理念を生成し、この「一般意志」なる抽象的理念が人民や政府を統御しているということになる。このような発想は普通に考えると荒唐無稽ともいえる。それゆえに従来ルソーの思想は近代民主主義が生成していく途上における「未熟」な思想として、あるいは全体主義に近接する「危険」な思想とみなされてきた。
ところが近年の情報技術の飛躍的な進展はまさにこのような「未熟」で「危険」なルソーの思想を実装可能なものとしつつある。この点、東浩紀氏は『一般意志2.0』(2011)においてルソーのいう「一般意志」を「データベース」として捉え直した「一般意志2.0」という概念を提示している。同書の主張はまず次の二つの命題から成り立っている。
まず第一の命題はルソーのいう「一般意志」とは一般に考えられていような熟議を経て合意に至る「意識」ではなく、むしろ情念溢れる集合的な「無意識」を意味しているということである。これは『人間不平等起源論』などで展開されている理性の力をほとんど信じることなく「野生の人」の本能に信頼を置くルソーの人間観をそのまま『社会契約』の解釈に持ち込んだものである。
ここから東氏はルソーの理想は「意識(ヒトの秩序)」ではなく「無意識(モノの秩序)」に導かれる社会にあったという。実際のところ、そのように解釈して初めて彼が「社会契約論」の著者であると同時にロマン主義を準備した情熱的な文学者でありという事実が整合的に理解できる。
そして第二の命題は現代とは「無意識を可視化できる」時代であるということである。すなわち、情報技術が飛躍的に進展した現代社会は「総記録社会」へと向かいつつあり、今や信じられないほどの多くの人々が自発的に、しかも実に克明に自らの行動や思考の履歴をネットワークの上に残し始めている。同書はこうした状況を「無意識の可視化」と呼ぶ。そして同書は、これからの政府はそのように情報技術により可視化された「データベース」としての無意識を「一般意志2.0」として捉え、この「一般意志2.0」をできるだけ統治に活用すべきであると主張する。
以上の二つが同書の中核をなす命題ですあるが、しかし同時に同書はここでルソーと袂を分かちフロイトを呼び出して、精神分析が意識による無意識の制御を志向するように国家の統治は「熟議(意識)」と「データベース(無意識)」の相互補完によって運営されるべきであるという第三の命題を導き出している。
このような「熟議」と「データベース」を組み合わせた「無意識民主主義」を同書は「民主主義2.0」と呼びます。ここからさらに同書は「民主主義2.0」の社会では私的で動物的な行動の集積(データベース)こそが公的領域を形づくり、公的で人間的な行動(熟議)はもはや私的領域でしか成立しないという第四の命題を提示するのである。
5 シンギュラリティと人工知能民主主義
そして東氏は近著『訂正可能性の哲学』(2023)において、こうした「一般意志2.0」「民主主義2.0」を「訂正可能性」の論理から捉え直すことになる。
2010年代の流行語の一つに「シンギュラリティ(特異点)」という言葉がある。ここでいう「シンギュラリティ」とは人工知能が人間の知能を超える転換点を指している。この「シンギュラリティ」という言葉が注目されるようになった契機としてアメリカの未来学者レイ・カーツワイルが2005年に出版した『シンギュラリティは近い』という著作が挙げられる。そこでカーツワイルは2045年には人工知能が人間の知性を超えると予言している。こうして2010年代になるとカーツワイルの議論に触発される形で人工知能が創り出すバラ色の未来を語る議論が多数現れるようになった。
こうしたことから同書において東氏は2010年代とは「大きな物語」が復活した時代であったと述べている。ここでいう「大きな物語」とは平たくいえば人類はある特定の終極=目的に向かってまっすぐに進歩しているという思想をいう。
この点、20世紀中盤までは例えば「共産主義」という名のイデオロギーが「大きな物語」として曲がりなりに機能していた時代であった。けれども、そのような思想は1970年代あたりから批判され始め、冷戦構造が終焉した20世紀の終わり頃にはもはや「大きな物語の失墜」が語られるようになった。
ところが21世紀に入ると、そのような「大きな物語」は「共産主義」のような社会科学ではなく「シンギュラリティ」という情報産業論や技術論といった新たな装いのもとで復活し始めることになる。要するに、文系の「大きな物語」が消えたと思ったら、理工系から新たな「大きな物語」が出現したわけである。こうして今や我々は「共産主義」という「第一の大きな物語」の代わりに「シンギュラリティ」という「第二の大きな物語」が席巻する時代を生きている、と東氏はいう。
その一方で2010年代はスマートフォンとソーシャルメディアの普及によるポピュリズムが台頭し、社会があらゆるところで分断され民主主義の危機が全面化した時代でもあった。そしてこのような民主主義の危機こそがシンギュラリティへの夢をさらに強化することになった。すなわち、いくら優れた通信環境を与えていくら良質の情報を提供しても結局のところ人間とはフェイクニュースと陰謀論に踊らされる愚昧な生き物でしかないのであれば、むしろ重要な意志決定は人間ではなく人工知能に委ねるべきであり、少なくともその支援を受けるべきではないかという発想が出てくるということである。
このような人間による意思決定への失望を前提とした民主主義を東氏は同書において「人工知能民主主義」と名指し、その起源をルソーが唱えた「一般意志」に見出すと同時に、現代における「人工知能民主主義」は『社会契約論』の裏側に隠されたルソーの屈折を、すなわち「訂正可能性」の論理を見落としていると指摘する。
6 訂正可能性--ルソーにおける「しまった」の論理
この点『社会契約論』という本は一般的に、まず最初に自然状態があり、次に人々の間で「社会契約」が交わされ、結果として共同体(社会)が生まれ「一般意志」が生まれるという直線的な過程を描いたものとして理解されている。ところが東氏は『社会契約論』には逆に最初に共同体(社会)の方が存在し、次にその起源として「社会契約」が見出され、結果として「一般意志」があたかも最初から存在していたものであるかのように仮設されるという、遡行的な発見の仮定が隠されているのではないかという。
そもそも周知の通り「社会契約」という考え方自体はルソーのオリジナルの思想ではありません。ルソーより先に社会契約を提唱した哲学者としてトマス・ホッブズとジョン・ロックの名が挙げられる。けれども実際にはホッブスやロックの提唱した社会契約とルソーの提唱した社会規約の間には大きな隔たりがある。
この点、ホッブズは自然状態では人間は殺し合いかねないので暴力を王に集中させるために社会契約が必要だと論じた。また、ロックは人間が本来持っている原初的な財産権を保障するために社会契約が必要だと論じた。つまり、ホッブズもロックも人間は孤独では生きていけない、いつ殺されるかわからないし、いつ財産を奪われるかわからないと考えており、だからこそ人々は社会契約を必要とすると主張したわけである。
ところがルソーは『社会契約論』に先行する『人間不平等起源論』という著作で、ホッブズやロックと異なり、人間は自然状態の方が幸せだったと主張した。つまりホッブズやロックは人間は孤独では生きていけないと考え、だから社会契約が必要だと主張しましたが、これに対してルソーは人間はむしろ孤独の方が幸せに生きることができると考えていたということである。
だとすればルソーはなぜ社会契約を必要としたのか。『人間不平等起源論』には「ある土地を囲いにして、『これはおれのものだ』と最初に思いつき、それを信じてしまうほど単純な人を見つけた人こそ、政治社会の真の創立者であった」という大変有名な一説がある。すなわち、ルソーからすれば人は皆孤独で幸せに生きることができるのだから社会契約など本来必要ではない「にもかかわらず」ある時「これはおれのものだ」と主張した誰かが不平等な社会を発明して「しまった」ので、みな社会契約を交わすほかなくなって「しまった」ということである。このようにルソーは社会契約の裏側に「にもかかわらず」「しまった」という論理を見出していたということである。
そして、このようなルソーの「にもかかわらず」「しまった」の論理を東氏は「訂正可能性」の論理から説明している。20世紀を代表する哲学者の1人であるルートヴィッヒ・ウィトゲンシュタインは後期の代表的著作である『哲学探究』(1953)において「人は言語を使ったゲームをルールを知らないままプレイしている」という驚くべき主張を行った。そして言語哲学者ソール・クリプキはこのようなウィトゲンシュタインの発見を「ルールとは共同体がプレイヤーを選別することではじめて確定する」という裏返った共同体論によって論証した。
このようなウィトゲンシュタインとクリプキの言語ゲーム論によれば、あるプレイヤーの行為がルールに違反していると判断することは原理的に不可能であるが、大多数の人々がその行為はルール違反だと見做す共同体に属していると信じているため、その行為はルール違反だと「訂正」されてしまうことになる。
もっとも、このような言語ゲームにおける「訂正」は共同体からプレイヤーに向けられるだけではなく、同時にプレイヤーから共同体に向けられることにもなるはずである。すなわち、共同体のルールとは静的に確定したものではなく、常に動的に更新される「訂正可能性」を孕んだものとなる。
こうしたことからルソーのいうところの社会契約もまた「これはおれのものだ」と叫んだプレイヤーによってそれまでの「自然状態というゲーム」が「所有権というゲーム」に「訂正」された結果として遡行的に発見されたものであるということである。
7 一般意志はつねに正しいとされてしまう
だとすれば、ルソーのいう「一般意志」もまた単純に実在するものではなく、あくまで「もしいま不平等な社会が成立してしまっているとすれば」という条件節のもとで、遡行的に見出される仮設的な存在であると理解されるべきことになる。
もっとも現実問題、不平等な社会は世界のどこにでも成立している。そして、このような不平等な社会における「一般意志」をルソーはしばし人間を超えた「事物」に例えている。換言すれば、ここでルソーは「一般意志」の力を人間が生み出した制約ではなく、天気の良し悪しや土地の高低や水の流れのような「事物=自然」による制約として捉えていたということである。
ルソーが「一般意志はつねに正しい」と断言できた理由がここに端的に現れている。「自然」による制約を「正しい」とか「正しくない」とかを判断することそれ自体に意味がない。「自然」とはただそこにそれがあるだけの状態をいう。雨が降れば傘をさすしかかないし、山を越えたかったら登るしかないし、川を渡りたければ船を探すしかないわけで、こうした「自然」に向かって「それは正しくない」などとと叫んでも仕方がない。こうした意味で「自然」はつねにすでに「正しい」のであり、それゆえに「一般意志」という「自然」もつねにすでに「正しい」ということである。
一般意志はつねに正しい。統治者が命じたら市民は死ななければならない。こうしたルソーの主張は一見して統治者の理不尽な命令を素朴に肯定する危険な主張のように見えるが、けれども本当はそれは「もしいま不平等な社会が成立しているのだとすれば」という条件節が挟み込まれていることを見落としてはならない〇〇のである。
そして、このようなルソーの思想を「まっすぐ」に受け継いだのが現在の「人工知能民主主義」ということになる。すなわち、それは「まっすぐ」であるがゆえに危険であるということである。ルソーの主張はその後の時代における無意識の発見や統計学の確立によって「まっすぐ」に合理的に読解できてしまう。すなわち、ルソーのいう「一般意志」とは実は集合的無意識と統計的法則性について語っていたものとして理解できてしまう。ここから真の民主主義を実現するためには人間よりも機械の指示に従った方がいいのではないかという「人工知能民主主義」の発想が出てくるのである。
けれどもそれはルソーが忍び込ませた「にもかかわらず」「しまった」という訂正可能性の論理を削ぎ落とした理解に他ならない。ルソーの「一般意志はつねに正しい」という命題は「一般意志はつねに正しいとされてしまう」という隠れた副命題とともに理解されなくてはならない、と東氏はいう。
先述のようにルソーは「一般意志」をあたかも社会の外部にある「自然」として捉えた。それはウィトゲンシュタインとクリプキの言語ゲーム論でいえば、ゲームの外部にあるルールに相当する。ルソーは人民は「一般意志」に従うべきだと記したが、それもまたゲームのプレイヤーがルールに従うしかないのと同じことである。
しかしゲームの外部にあるルールがプレイヤーを支配するものであると同時にゲームの内部からプレイヤーによる訂正可能性に曝されているように、社会の外部にある「一般意志」という「自然」もまた「文明」を支配するものであると同時に社会の内部から「文明」による訂正可能性に曝されている。そしてこの訂正可能性の実践者の一人がほかならぬルソーその人であった。
8『新エロイーズ』という抵抗
実はルソーは『社会契約論』と同時期に『新エロイーズ』という書簡集形式の恋愛小説を書いている。同作ではスイスの湖畔に住む田舎貴族の娘「ジュリ」と、その家庭教師である平民の青年「サン=プルー」の恋の行方が彼ら二人が交わした手紙を中心に描かれている。ふたりの恋は10年のあいだ断続的に続いたあと、ジュリの突然の死で終わりを告げる。
この点、同作には「第二の序文」という同作の出版を非難する架空の対話相手に対してルソーが疑問に答え出版を擁護するという形式の長い文章が付いている。
従来、ルソーは小説の執筆を含め芸術について総じて否定的見解をとっていた。ルソーは人間は自然の中で十分に幸せだったのであり、文明は人間を堕落させただけだと主張していた。自然は善であり、文明は悪であり、全ての不平等は文明から生まれるのであり、人は自然に戻ればいいというのがルソーという思想家の基本的態度である。そこから必然的に文明の所産である芸術もまた人間を堕落させるだけだという見解が導かれる。
このように、これまで創作を否定していたルソーがこともあろうに創作を始めてしまったわけである。『新エロイーズ』はその矛盾への言い訳から始まりまっている。ここでのルソーの主張は次のような二つである。
まずその一つ目は物語が真実なのか嘘なのかを判断できないところがよいという主張である。彼は同作の「第一の序文」でこの書物は恋人たちの手紙を集めたものであり、彼自身は編者にすぎないと断りを入れている。もちろん実際にはルソーが創作したものであることは誰の目にも明らかなのだが、とりあえずはそのような「ふり」をしている。
そしてその二つ目は自分の作品は都会ではなく田舎で読まれることを目指しているからよいという主張である。ルソーは「第二の序文」で繰り返し「都会」と「田舎」を対比させている。すなわち、都会の人は作品そのものに向かい合わず、作品は読んだことを見せびらかす社交の道具にしかならないけれども、田舎では社交の空間がないから人々は何も見せびらかすことなく作品そのものに向き合うことができるとルソーはいう。
この二つの主張は深く結びついている。先述のようにルソーという思想家の基本的態度は自然は善であり、文明は悪であるというものであった。すなわち、ここには自然=真実=田舎と文明=嘘=都会という二項対立がある。ところがルソーのいう「自然」とはある種の歪みを抱えた概念である。
この点『社会契約論』でルソーは自然が善で文明が悪だといいながらも文明(社会契約)を引き受けた結果「一般意志」は文明(社会契約)の産物でありながら自然の産物だと主張するほかはなくなってしまった。そして『新エロイーズ』でもルソーは自然が善で文明が悪だといいながらも、文明(創作)に手を染めてしまった結果、小説は文明(創作)の産物でありながら自然の産物だと主張するほかはなくなってしまっている。一体なぜそのようなことになったのか。
9 演劇とポピュリズム
先に見たように「一般意志」の裏側にはルソーの「しまった」の論理がある。人は「自然」の中でも幸せだったにもかかわらず、文明(社会契約)に移行して「しまった」わけである。この移行は決して必然ではなく、望ましいものでもないけれど、ともかくもそれは起きて「しまった」以上、人間はその状態から遡行して社会契約の必然性を再構築するしかない。
そして、そのような「しまった」は決して過去に生じただけではなく、いまも生じているし、これからも生じうるものであるということである。例えばルソーは『新エロイーズ』の刊行の3年前に『演劇についてのダランベール氏への手紙』という公開書簡を刊行している。宛先になっているジャン・ル・ロン・ダランベールはジュネーヴは演劇が禁止されているのが欠点であり劇場を立てると良いと提言していた人物である。ジュネーヴが生まれ故郷であるルソーはこの提言に強く反発した。ルソーはこの『演劇についてのダランベール氏への手紙』の中で劇場の設立のみならず演劇の社会的効用をほぼ全面的に否定している。
この点、ルソーは演劇は「嘘」であり、市民の親密な対話を破壊する一方で、虚飾と社交を強化し、健全な統治を脅すという。すなわち、ジュネーヴには素朴な人々が住んでいて、市民は「セルクル」と呼ばれる寄合を作り、親密で共和主義的な関係を楽しんでいるのに、ひとたび劇場が設立されて「しまった」とすれば、彼らもまた虚飾と社交に惑わされ悪徳に侵され健全な統治を歪めてしまうだろうということが当時のルソーが目下、憂慮した事態であった。これは『社会契約論』の観点からいえば「特殊意志」の表出を歪め、ひいては「一般意志」の形成を阻害するという事態を意味している。これは現代でいうところの「ポピュリズム」の問題である。
10 公共性における嘘と真実
それゆえにルソーはこのような「しまった」の進行を止める対抗手段を講じる必要があり、そこで構想されたのがこの『新エロイーズ』の執筆であった。ここでルソーは文明=嘘を否定して自然=真実を単純に称揚するだけの理論家から文明=嘘によって自然=真実を捏造しようとする実践家へと足を踏み出している。
だとすれば『新エロイーズ』はまさに「嘘」による「真実」の「訂正可能性」という課題に真正面に取り組んだ著作であるといえる。サン=プルーとジュリの物語は誰が見ても嘘でしかない。にもかかわらずルソーはその嘘を流通させることで人々の真実を守ろうとした。
一般意志は常に正しい。つねに正しいとされてしまう。こうした意味で「一般意志」とは「真実」の言葉であす。しかし、そのような「真実」もそのまま放置すればそれは「真実」の名において暴走する。けれども、そこに「嘘」を介入させることで、その「真実」は「訂正可能性」の契機に開かれることになる。こうした意味でシンギュラリティへの夢が喧伝される現代における公共性の条件とはおそらく、このような「嘘」と「真実」の相補性からなる「訂正可能性」にあるといえるのではないだか。
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