人間の消滅から人間の再発明へ


1 人間の消滅とポスト・ヒューマニズム

ポスト構造主義を代表する思想家の1人であるミシェル・フーコーは『言葉と物』(1966)において「人間の消滅」という挑発的なテーゼを提示して一躍時代の寵児としての地位を確立した。難解な専門書にもかかわらず「バゲットのように売れた」といわれる同書は中世以降の西洋における「エピステーメー」の変化を主題としている。ここでいう「エピステーメー」とは、ある時代や社会の思考システムの基本的な布置を指している。そしてフーコーは西洋の歴史におけるエピステーメーはルネサンス期(16世紀以前)、古典主義時代(17〜18世紀)、近代(19世紀以降)という三つの段階の境界線上で不連続的に変化してきたと主張する。

この点、ルネサンス期におけるエピステーメーの中心は「言葉(記号)」と「物(事物)」を同じ水準に位置付ける「類似」にあったが、古典主義時代におけるエピステーメーの中心は「言葉」と「物」をそれぞれ別の秩序に位置付ける「表象」に置き換わった。そして近代のエピステーメーの中心には「言葉」と「物」の対応を担う存在としての「人間」が登場した。その上でフーコーはいまや「人間」も主役の座から降りようとしているといい、同書は「人間は波打ちぎわの砂の表情のように消滅するであろう」と結語している。

もちろん、フーコーのいう「人間の消滅」とはあくまでも「人間」という観念の終焉を指す思想的な出来事であった。しかし21世紀に入ると生物工学(ゲノム編集)や情報工学(人工知能)といったテクノロジーの発展によって「人間の消滅」がいよいよ現実のものとなり始め、ここから従来の「ヒューマニズム(人間中心主義)」を揺るがす「ポスト・ヒューマニズム」というべき状況が前景化してくることになる。

例えばオゾンホールの解明でノーベル化学賞を受賞したパウル・クルッツェンは完新世に代わる地質年代区分として「人新世」を提唱し、人類が地球環境に及ぼす影響に警鐘を鳴らしている。またデイヴィッド・ベネターが主張する「人類はできるだ早く滅亡した方がいい」という「反出生主義」もいまや少なかならぬ支持を得ている。

そして、こうした「ポスト・ヒューマニズム」を体現する哲学的潮流として「思弁的実在論」と「加速主義」があげられる。「思弁的実在論」が人間の相関物としての世界(相関主義)の破棄を志向し「加速主義」が資本主義がもたらす人間の疎外をさらに加速させていくという点で両者は「ポスト・ヒューマニズム」に立つ思想に位置付けられる。


2「人間」なる幻想の訂正

こうした「人間の消滅」の現実化、あるいはポスト・ヒューマニズム的な思想状況の中で東浩紀氏は「哲学とはなにか、あるいは客的-裏方的二重体について」(2023:ゲンロン15所収)という論考で新しい時代における「人間」のあり方を提示しています。その論旨は次のようなものである。

伝統的に哲学は「人間」を「動物」の上位においた。人間は動物と異なり理性や言語のような固有の精神的な能力を持つからこと文明や社会を生み出したのだと考えられてきた。しかし一方で人間とはそもそも動物であり、人間と動物に明確な線は引けない。加えて最近では人工知能の急速な発展により、いまや機械も人間のようにあたかも自分で考えているかのように言葉を話す。

このように人間固有の能力とされてきたものは動物も機械も部分的に持ち合わせている。こうした意味で確かに「人間」は消えつつあるといえる。しかし、そうであるにもかかわらず東氏は「人間」は消えないという。なぜならば「人間」とは一種の「幻想」でしかなく「幻想」はその本来の定義が失効しても「じつは」という訂正の論理によって自在に姿を変えて生き残っていくものであり、人はそんな訂正可能性を孕んだ無数の幻想に囲まれて生きているからである。

この点、一般的には「幻想」よりも「現実」の方が重要だと考えられている。しかし現実と幻想の関係は入り組んでいる。例えば平和のために戦争が行われるように、幻想のために現実が動かされていくこともある。その意味で幻想とは文字通りの幻想ではなく現実的な存在でもあるといえる。


3 客的-裏方的二重体

そして東氏はここに「リゾート/テーマパーク」の比喩を重ね合わせる。「リゾート/テーマパーク」は「客」と「裏方(従業員)」で成立している。ここで「客」は「リゾート/テーマパーク」の幻想を満喫して「裏方」は「リゾート/テーマパーク」の現実に従事している。しかし、あたりまえであるが「客」は別のところでは「裏方」となり「裏方」も別のところでは「客」となる。

すなわち、現代社会において人はときに「客」として幻想と戯れ、ときに「裏方」として現実に直面するということである。この二つの側面はひとりの人間の中でもひとつの社会の中でも不可分に結びついている。ひとりの人間がずっと裏方だったり、ずっと客であったりすることはないし、ひとつの社会の構成員がみな裏方であったり、あるいはみな客であったりすることもない。皆が客と裏方の間を往復しながら生きている。

そのような現代人のあり方を東氏は「客的-裏方的二重体(消費者的-生産者的二重体)」と呼ぶ。この点、フーコーは近代の人間を「経験的-超越論的二重体」として捉えた。かつて人間は「経験的世界」と「超越論的世界」を往復して生きるものだと考えられてきた。ここでいう「経験的世界」と人が経験する個々の事実を指している。そして「超越論的世界」とはそのような個々の事実を事実として受けれることを可能にする抽象的な構造を指している。

しかし現代においてかつての超越論的世界は脳科学や神経科学の発展により急速に経験的世界のなかに還元されつつある。いまや超越論的世界などというのは幻想でしかない。すなわち、フーコーが「波打ち際の砂の顔のように消える」と述べた「人間」とはこの「経験的-超越論的二重体」のことを指しているのである。

その一方で、フーコーのいう「経験的-超越論的二重体」はもっぱら東氏のいう「裏方」のみを念頭においた議論であった。しかしながら少なくとも現代においては人は皆「裏方」であると同時に「客」でもある。そこでこのような「客的-裏方的二重体」を東氏は新しい「人間」の観念として提示する。これは先述した「人間」とは訂正の論理で姿を変える幻想であるという観点からいえば、かつて「人間」は経験と超越の往復する存在とみなされていたけれど「じつは」客と裏方を往復する存在であったということである。


4 クレーム対応としての哲学

そして、この「客的-裏方的二重体」という新たな「人間」を軸にして東氏は二つの実践的な提案を導き出している。その一つは自然科学と哲学(に代表される人文科学)の役割分担を再定義する提案である。「経験的-超越論的二重体」としての「人間」が消えて「客的-裏方的二重体」としての「人間」が現れたとすれば、学問の体系も「経験的-超越論的二重体」を前提とした理解から「客的-裏方的二重体」を前提とした理解へとアップデートされなければならないということである。

この点、かつての超越論的世界が幻想に解消されてしまった現代において自然科学は現実を扱い、哲学は幻想を扱うことになる。幻想は幻想でしかない。しかし幻想はある意味で現実的な存在である。いかに現実を解明したところで幻想から解放されない問題は山ほどある。例えば自然科学がいつか愛のメカニズムを解明したとしても、おそらく人は愛の悩みから解放されないだろう。

結局のところ人は幻想に振り回されて生きている。人は嘘を平気で信じる。いくら嘘だと指摘されても信じる。このような傾向はフェイクニュースや陰謀論が跋扈する現代の情報環境においてより顕著となった。そこで氏はこのような幻想の持つ厄介さに向き合う学として現代の哲学(に代表される人文科学)を位置付ける。これは「リゾート/テーマパーク」の比喩でいえば自然科学と哲学は共に裏方として「リゾート/テーマパーク」の運営に従事するが、その担当業務が異なり、哲学はいわば客の幻想を扱うクレーム対応係として位置付けられるということである。


5 ものを考えない場所を創り出すということ

そしてもう一つは「ものを考えない」場所を創り出すという提案である。この点、本論は東氏が東日本大震災の直前に創刊された『思想地図β』の創刊号で記した「消費社会の幻想が友と敵の分断を超える連帯を作り出す」という趣旨の直観から出発している。もちろん、このような消費社会の幻想は裏方によって支えられている。そして、その直後に起きた原発事故が突きつけたものはまさにそのような裏方(電気)の現実であった。また近年におけるコロナ禍とウクライナ戦争も裏方(医療と軍事)の現実を再認識させるものであったといえる。

しかし一方でこのような裏方の現実ばかりを強調するとかえって社会は機能不全に陥ってしまうと氏はいう。社会は幻想と現実の両輪で成り立っている。世界は裏方だけで成り立っていない。客もまた世界を作っている。

そもそも客が存在しなければ裏方も存在しない。裏方がものを考えるのは客がものを考えなくてもよいようにするためである。そして客は別の局面で裏方になり、裏方は別の局面で客となる。このように人は「ものを考える」局面と「ものを考えない」局面をモザイク状に組み合わされた状況を生きている。それが「客的-裏方的二重体」の時代であるということである。


6 人間の消滅から人間の再発明へ

だから、この時代の総体を捉えるためには、現実を見ろ、裏方を見ろ、おまえの安楽な消費生活が踏み付けにしてるものを見ろというだけではだめなのだ。現代社会はそんなに単純にはできていない。ぼくたちはむしろ、客であること、動物であること、「ものを考えないこと」の意味を考えねばならない。

(「哲学とはなにか、あるいは客的-裏方的二重体」より)


かつてマルティン・ハイデガーは『存在と時間』で人間(現存在)を世界への「配慮」で定義されるとした。しかし、いまや配慮されるべき世界はハイデガーの時代よりも複雑かつ多様になり、おまけに遥かに高い解像度で把握されているため、そもそも何をどこまで配慮すべきなのかという問題が生じる。極論すれば文明的な生活すべてが地球環境に対する加害性を持っているとさえもいえる。

そこで配慮を続けるには見える世界を限定する必要がある。つまり「ものを考える」ために「ものを考えない」場所を作る必要がある。この点、現代人が「ものを考える」のは他の誰かが「ものを考えない」ですむためである。現実はあまりにも複雑だから人はお互いに配慮を融通しあって生きるしかないと東氏はいう。すなわち「ものを考えない」場所を作り出すということは持続可能な配慮のための条件であるともいえる。

「現実を見ろ」という言葉はとても強く正しい響きを持っている。しかし、そもそも人は特定の(多くの場合自身によって都合のよい)幻想を介してしか現実を見ることはできない。どんなに手を伸ばしても人は「ほんとうの現実」には届かない。その意味で人は初めから幻想により有限化された現実を生きている。

けれども同時にこの幻想により有限化された現実は様々な局面で「じつは」という訂正の論理に開かれている。そして、この訂正の論理を有効に機能させるには「ものを考える」ことと「ものを考えない」ことの往還が必要となるということである。

人間であるために動物として生きるということ。ものを考えるためにものを考えないということ。こうした逆説的なあり方こそがあるいは、世界から超越という名の外部が消滅して現実と幻想が融解した現代における「人間」のあり方なのかもしれない。いずれにせよ「人間の消滅」が現実化しつつある「ポスト・ヒューマニズム」の進展は逆説的なかたちで「人間の再発明」を要請しているといえる。




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