統合失調症論⑵
1「あいだ」の精神病理学
日本を代表する精神病理学者である木村敏氏の名は「あいだ」の思想とともに広く知られている。この「あいだ」の思想の原点は木村氏の学生時代に見出すことができる。当時音楽に熱中していた氏はコンクールで合奏する機会も多く、この時の経験について氏は後年、次のように述べている。
「数人で合わせている合奏音楽の全体が、個人の意志を超えたひとつの強大な意志を持ちはじめ、まるで一個の生き物であるかのように感じられてくる。そしてその大きな意志が、私個人のテンポやリズムだけでなく、私がひとつひとつの音に与えるもっと微妙な表情にいたるまで、私自身の演奏行為を支配し、操作するようになる。」
(『心の病理を考える』より)
木村氏によれば、ここでいう「大きな意志」は「なまなましい実体性」を帯びた「まるで目に見えない生きもの」のようであり、その時に合奏全体を支配する「大きな意志」と私という「個人の意志」は渾然一体となり、いわば二つの意志がひとつになっているように感じられたという。
このような「二重意志」は音楽の合奏といった特殊な場のみならず、ありきたりな日常においてもしばし我々の前に姿を表している。例えば多人数でのコミュニケーションにおいて我々は自身の発言の調子や内容がそのコミュニケーションの場全体から規制されているような時である。すなわち「あいだ」とはこのような複数の人間が集まった「場」に宿るものである。
そして木村氏によれば、この「あいだ」とは「リアリティ(理性的な認識対象としての現実)」の境域において認識対象として把握されるものではなく「アクチュアリティ(行為をしている最中に感じられる現実)」の境域において実体的経験として把握されるものであるとされる。では、こうした「あいだ」の思想から統合失調症はどのように把握されるのだろうか。
2「あいだ」の病理としての統合失調症
木村精神病理学は大きくいえば「自己論」から「時間論」を経て、やがて「生命論」へと展開されていった。若き日の木村氏はまず「自己の存在が感じられない」という離人症における問題から出発し、他の精神病理の場合もこうした「自己」の問題を考えようとした。この点、木村氏によればうつ病ではすでに「自己」が成立しており、その自己と他者の「あいだ」が問題となるが、統合失調症においては「自己」の成立そのものが問題となるのである。
「自己・あいだ・分裂病」という論文において木村氏は統合失調症における「自己」の確立に焦点を当て、その自己形成の歴史において何が問題だったかを以下のように説明する。
そもそも「自己」は「自己ならざるもの」とともに、主客未分の根源的自発性から発生するが「自己」の側の差異化によって「自己」と「自己ならざるもの」が分離される。こうして「自己」はその都度「自己ならざるもの」を分離しながら、その同一性を反復し続け、その主体性と固有性はこの反復によって維持され、その内面の歴史を形成していく。
こうした「自己」の内面の歴史は多くの人々や物事との「あいだ」の歴史でもあり、そうした「あいだ」は一旦反復されて歴史を形成すると、それ以降は「自己」の一部となって生き続けている。このように「自己」の歴史は「あいだ」の歴史とともに始まっている。生まれたばかりの赤ん坊に「自己」はないが、母親との「あいだ」に最初の自他の区別をした時点から「自己ならざるもの」との「あいだ」の歴史がはじまり「自己」が成立し始めるということである。
ところが統合失調症の場合、こうした「あいだ」が極めて不安定で、結果として「自己」はその同一性を反復できずその形成は不完全なものとなる。このような事態を木村氏は「ノエマ的自己(意識対象)」が対象化されておらず「ノエシス的自己(意識作用)」が成立していないと説明している。すなわち、統合失調症とは「自己」と「自己ならざるもの」が同時に発生する場所である「あいだ」の病理であるということである。
3「あいだ」としての「いま」
次に木村氏はこうした「自己」についての問いを「時間」の問題として捉えようとした。木村氏の代表作である『時間と自己(1982)』においては人間の時間性というあり方と精神病理の問題が現象学的観点から論じられています。その概要は以下のようのものである。
通俗的な時間の観念では「いま」とは時計が指し示す特定の瞬間を言うが、我々の日常においては「いま」は瞬間ではなく、一定の広がりを持っている。このような「いま」には「私」という主体の行為が含まれており、こうした行為の中に身を置いた「私」のアクチュアリティにおいてこそ「いま」は「過去」と「未来」の「あいだ」の広がりとして感じられることになる。
しかし、離人症という精神疾患においてはこうした「いま」の自明な感覚が消失してしまう。離人症においてはある瞬間との印象と次の瞬間の印象を「時間」という観点で結びつけることができず、一瞬一瞬の「いま」が無数に出現することになる。すなわち、そこでは「私」のアクチュアリティにおける感覚が失われ「あいだ」としての「いま」が成立していないということである。
4 アンテ・フェストゥム
これは「自己」の成立していない統合失調症にも同じことがいえる。統合失調症になる人は青年期に成熟した人間関係や将来を決定する重大な場面に直面すると、それに対処できず、激しい絶望感に襲われ症状が発現する。そして「自己」に対する確実な認知(自己認知)がないため、それが意識や行動にも現れ、独特な雰囲気を醸し出す。
このような「自己」の不確実性を反映した統合失調症の症状として「被影響体験(自分の意志や思考や感情が他者のように思えたり、他者に操られていると感じる体験)」と「つつぬけ体験(自分の意志や思考や感情が他者に伝わってしまっていると感じる体験)」が挙げられる。また統合失調症の典型的症状としての「関係妄想(周囲の出来事が自分に関係していると感じること)」や「幻聴(自分への批評や命令が聞こえること)なども「自己」の不確実さを示している。
このように統合失調症においては自己認知がうまくいっていないため病者は現在の自己を否定し、実現不可能な未来の可能性に憧れるようになり、理解し難い理想をたちどころに実現しようとする。そこには「それ」さえ実現すれば今までの人生とは根本的に違った〈何か〉が開けるだろうという思考がある。これは「いままで(過去)」の自己と「いま(現在)」の自己を認知できていないことによる「いまから(未来)」の自己への憧れの現れと言える。
また統合失調症の中核症状である被害妄想は「誰かに狙われている」という追跡妄想や「周囲の人たちに見られている」という注察妄想という形を取るが、このように自分を迫害してくる他者とは誰それという具体的個人ではなく、たいていは漠然とした「人びと」であり、多少具体的になっても「正体不明の組織」であったりする。
いずれにしても統合失調症者が何らかの被害妄想を持つとき、実際には具体的な他者が怪しい態度をとっていたり自分の生活環境に不審な変化があったりするわけではなく、まず本人が何かの被害を被っているという恐怖感を持ち、そこから二次的に周囲の他者や環境が不審に思えてくるのである。そして、そのような被害妄想に対して統合失調症者は反撃することも無視することもできず、迫害してくる相手は「絶対的な他性」ともいうべき抗い難い力を持って現れる。
このような圧倒的な「絶対的な他性」を前にして統合失調症患者は「何かが起こるのではないか」という不安と警戒のなかで日々を過ごすことになる。とりわけ「この世の終わり」とでもいうべき破滅的状況が起こりそうだという統合失調症的体験は特に「世界没落体験」と呼ばれる。このように統合失調症患者は常に周囲世界から何かを感じ取り、先へ先へと行動しなければいけないと気分の中で生活している。
こうしたことから統合失調症患者は、いわば未来先取的、予感的、先走り的な時間の中に生きているといえる。そこで木村氏はこのような統合失調症患者特有の未来先取り的な時間構造を「祭りの前」を意味するラテン語である「アンテ・フェストゥム(ante festum)」と呼んだ。
5 木村精神病理学の生命論的転回
後年の木村精神病理学は「生と死」をめぐる「生命」の領域へと旋回していくことになる。その「生命論的転回」の嚆矢となった著作『あいだ』(1988)において氏は次のような仮説を提示する。
この地球上には、生命一般の根拠とでも言うべきものがあって、われわれ一人ひとりが生きているということは、われわれの存在が行為的および感覚的にこの生命一般の根拠とのつながりを維持しているということである。
(木村敏『あいだ』より)
生命の実体や生命の起源についての研究は現代における先端科学の中心的課題の一つであることは言うまでもなく、この先いつか生命の構造が余すところなく解明される日が来るかもしれない。もっとも、そのような科学的視野に中にある「生命」とはどこまでいっても「生命物質の生命活動」のことである。たとえ「生命物質の生命活動」が余すところなく解明できたからといって、個々の「生命物質の生命活動」とはまったく位相を異にする「生命それ自身」ともいうべき存在様式が明らかになったとはいえない。
このような「生命それ自身」は「生命物質の生命活動」のように個別的な認識の対象にならないが「生命それ自身」はこの地球上に存在するすべての生きものが現に「生きている」ということの根拠となっている。すなわち、すべての生きものが「生きている」とはこの意味においての「生命一般の根拠とのつながり」が保たれている、あるいは切れていないということに他ならない。そうであれば我々が世界や自己における経験を事実のままに説明するためにはどうしてもこのような「生命一般の根拠」というべき存在を仮定しなくてはならないということである。
6 ヴァイツゼッカーの医学的人間学
そして木村氏がこうした生命論を展開する上で西田と共に特権的に参照する思想家がヴィクトーア・フォン・ヴァイツゼッカーである。ヴァイツゼッカーは精神科医ではなく内科医、神経科医であり同時に哲学者でもあった人物だが、彼は早くから客観主義的な自然科学的医学に対する批判を展開し、医学に「主体」を導入する「医学的人間学」を提唱したことで知られている。このような主張は今日的な医療倫理からみればごくあたりまえのことを言っているようにも聞こえもする。しかし、ここでヴァイツゼッカーのいう「主体」とはかなり奇妙な概念である。
彼のいう「主体」とは「客体」と対立する項としての「主体」でも、近代的自我という意味での「主体」でもなく、広い意味での「生きもの」とその外部である「環境世界」との邂逅それ自体を指している。この点、彼は生きものがその生存を保持するため環境世界との間に保っている接触現象のことを「相即 Kohärenz」と呼ぶ。生きもの自身も環境世界も絶え間なく変転する中で、この「相即」は絶えず繰り返し中断されることになり、そのたびにそれに変わる新たな「相即」が樹立されて、生きものと環境世界との接触は引き続き保たれることになる。
このような「相即」と呼ばれる事態を支えている知覚と運動の円環構造をヴァイツゼッカーは「ゲシュタルトクライス」と呼ぶ。そしてこのような構造を生存を保っている当事者である生きものの側から見たものが、彼のいう「主体」ということになる。すなわち、彼のいう「主体」とは、いわば生きものとその環境との〈あいだ〉の現象であると理解できるのである。
こうした意味で彼の主体概念において人間的な「意識」は要件とされておらず、その範囲は人間以外の全ての生物、それも随意運動の可能な動物だけではなく、植物から単細胞生物まで拡大されて適用される。すべての生きものは環境世界と「相即」を成立させている限り「主体」として生きているということである。
こうしたことからヴァイツゼッカーの主体概念は生きものが「生きている」という事実から切り離すことができない。「生きている」ということは一定の物質的組成を持った物体が「生命」と呼ばれる活動のうちに身をおき「生命」に根ざしているということである。このような生きものと「生命」の「あいだ」を、彼は「根拠関係」と呼ぶ。そして、このような「生命」への「根拠関係」こそが生きものを「主体」たらしめている「主体性」であり、ここから彼は医学への「主体」を導入する上ではこのような「主体」を成立せしめている「主体性」としての「生命」に関与することが必要になると主張するのである。
このようにヴァイツゼカーの医学的人間学は「患者さんの主体性を大事にしよう」などという常識的なヒューマニズムではなく、人の生死の問題を個人を超えた「生命」という局面から見ていくという意味ではむしろラディカルなアンチ・ヒューマニズムに立脚するものであるとすらいえる。
7 世界とのかかわりと生命とのつながり
この点、木村氏は世界とのかかわりとしての「主体」と生命とのつながりとしての「主体性」という二つの主体概念の関係を音楽を例にして説明する。この点、音楽の演奏は少なくとも次のような三つの契機から成り立っている。すなわち⑴瞬間瞬間の現在において次々と音楽を作り出していく行為と⑵自分の演奏している音楽を聞く作業と⑶これから演奏する音や休止を先取り的に予期することで現在演奏中の音楽に一定の方向を与える作業である。
その上で氏は音楽を演奏する行為的な側面を音楽の「ノエシス的」な面と呼び、その時に我々が意識している音楽の演奏を音楽の「ノエマ的」な面と呼ぶ。いままさに音楽を演奏するという第一の契機は音楽のノエシス的な面にほぼ相当し、これまで演奏された音楽を参照する第二の契機とこれから演奏される音楽を先取りする第三の契機は音楽のノエマ的な面に相当する。
音楽のノエシス的な面であるその都度の演奏行為がそれ自体として独立に意識されることは決してなく、我々が経験できるのはいつもこれまでに演奏された音楽かこれから演奏する音楽のどちらでしかなく、これはいずれも音楽のノエマ面の意識に他ならない。
つまり我々は演奏という行為と聴覚という感覚の両面で音楽の世界と関わっているということである。これは知覚と運動を一元的に把握するヴァイツゼッカーのいう「ゲシュタルトクライス」の格好の実例であるといえる。すなわち、ここで演奏者は絶えず「世界とのかかわり=主体」というものに直面すると同時に「生命とのつながり=主体性」を見出すことができているということである。
8 ノエシス・ノエマ・メタノエシス
これは何も音楽だけではなく、例えばわれわれが何か話したりする時や本を読んだりする時にも当てはまる。これらの場合も「話し手/読み手」の意識に表象されたノエマ面である「話された内容/読んだ文章」が「次の話/次の読み」を限定するノエシス的な作用を営むことになる。
すなわち、ここでは「話し手/読み手」の意識の中には現在「話している/読んでいる」という「第一の主体」の他に「話された内容/読んだ文章」そのものが「第二の主体」としてノエシス的な作用を営んでいることになる。
このような直接的に世界と出会って音楽や言葉や文字を作り出し意識の中にノエマ的表象を送り込んでいる「第一の主体」も、すでに「作られた」ものの背後から働いてその「作る」行為に一定の方向を指示する「第二の主体」もいずれも意識のノエシス面に位置しているが、この二つの関係は決して互いに平等ではなく「第二の主体」は「第一の主体」に対して「ノエシスのノエシス」としての間主体的な「メタノエシス」の立場にある。
つまり二つの主体が別々に存在するわけではなく「第二の主体」がその一局面として「第一の主体」を包摂しているということである。すなわち、ヴァイツゼッカーのいうところの「根拠関係」としての「主体性」は「世界との出会いの原理」としての「主体」を包含して限定しており「ゲシュタルトクライス」の究極の根源は生命一般の根拠とのつながりの中に見出されることになるのである。
9 生命の円環
以上の議論の全体の構造はほぼ次のようになっている。人間は生物として生命一般の根拠との「あいだ」に絶えず関係を持ち続けている。この関係は世界との〈あいだ〉の瞬間瞬間のノエシス的・実践的な行為的関係を通じて保持されている。この刻々のノエシス的行為は、そのつど意識の中に認知対象として個々のノエマ的表象を送り込む。
そして、このノエマ的表象は、そのつどのノエシス的行為が全体的な生命一般の根拠とのつながりから外れないようにこれを制御する標識として役立っている。それゆえにこのつながりが個々のノエシスを包む高次のメタノエシスとして作用する際にも、個々のノエマ的表象の複合的な全体、つまり世界表象のようなものが制御の標識の役目を果たすことになるのである。
このノエシス的行為面とノエマ的意識面との「あいだ」でノエシスがノエマを生み出すそれ自体ノエシス的な働きが、いわゆる「自己=我」を成立させる場面ということになる。つまり「自己=我」という概念はノエマ的意識を抜きにしては考えられない。それゆえに我々はこうしたノエマ的意識を滅却した純粋なノエシス的な行動を通常「無我」とか「忘我」などと呼んでいる。
こうしてノエシスとノエマはひとつの円環を描きだすことになる。このような円環をヴァイツゼッカーは知覚と運動からなる「ゲシュタルトクライス」として捉えた。そして、このような円環を駆動させているものこそがヴァイツゼッカーのいう生命との「根拠関係」であり、木村氏のいう「生命一般の根拠とのつながり」ということになるのだろう。
こうした意味で我々が日々において固執する〈わたし〉という「自己」とは、いわば「生命の円環」というべき、より大きな存在様式の中から産み出されたものであるといえる。そして、こうした根源的な関係をあえて比較的、馴染みのある日本語に言い換えるとすれば、それはおそらく「物語」と呼ぶことができるかもしれない。
10 二重の主体性と生命論的差異
このように木村氏はヴァイツゼッカーの医学的人間学を高く評価しつつも「集団的主体性」という概念からその思想をさらに更新しようとする。ここでいう「集団的主体性」とは個人の「個別主体性」に先立つ共同的な主体性であり、このような「集団的主体性」は精神科の臨床はもとより、音楽の合奏や日常的な人間関係にも見出すことができるとして、通常は「個別主体性」の肥大で覆い隠されている「集団的主体性」を考古学的に発掘することによって人間学的な諸問題に新しい光を投げかけることができるのではないかと木村氏はいう。
こうした「集団的主体性」を軸とした木村氏の生命論は1996年秋に開催された国際シンポジウム「生命論」における二つの講演でまとまったかたちで論じられている(いずれの講演も『こころ・からだ・生命』に収録されている)。
まず第一講演「心身相関と間主観性」で氏は「間主観性」を「公共的間主観性(認識や行動の基盤として客観性の基礎となる通常の意味での間主観性)」と「私的間主観性(本能的な次元で痛みや喜びや悲しみを共有する間主観性)」に区別した上で「公共的間主観性」が複数の主観的経験や主体的行動のあいだでいわば二次的に成立する関係であるのに対して「私的間主観性」とはむしろ〈あいだ〉そのものが個別の主観/主体から独立した独自の主観性/主体性を帯び、それ自体がある意味で独立の主観/主体として働いているような事態であるとする。
ここで氏はヴァイツゼッカーの「相即」の概念を援用して〈あいだ〉の主体としての「私的間主観性」を「個別主体性」とは別の「集団的主体性」として位置付け、生きものを「個別主体性」と「集団的主体性」という「二重の主体性」の緊張関係を生きる存在であると捉える。
さらに第二講演「人間的医学における生と死」で氏はまず「リアリティ」と「アクチュアリティ」の区別から出発して「生命そのもの」は生きている〈もの〉としての実在(リアリティ)ではなく、生きている〈こと〉という現実(アクチュアリティ)として捉えなければならないという。
そして、氏はこの生きている〈もの〉と生きている〈こと〉という生命論的差異を、第一講演で提示した「個別主体性」と「集団的主体性」からなる「二重の主体性」へと接続し「個別主体性」は個々の生きものに基盤をもつ「リアルな不連続性」を体現するものであるのに対し「集団的主体性」は「生命そのもの」に基盤をもつ「アクチュアルな非・不連続性」を実現しているとして、生きている〈もの〉としての個別的な生命が「自と他」の区別とともに「生と死」の区別を抱え込まざるをえないのに対して、生きている〈こと〉としての「生命そのもの」には「自と他」の区別も「生と死」の区別も存在しないと述べている。こうしたことから「生命そのもの」はヴァイツゼカーの言っているとおり(個の生死を問題とする限りにおいては)けっして死なないと木村氏は述べている。
11 木村生命論の問題点と可能性
このようにおそろしく並外れたスケールで展開されていく木村氏の生命論に対しては当然のことながら「生命を実体化し過ぎている」という批判が向けられる。例えば山竹伸二氏は日本を代表するセラピストを論じた著作である『こころの病に挑んだ知の巨人--森田正馬・土居健郎・河合隼雄・木村敏・中井久夫』(2018)において木村氏の生命論を「自己」が「自己ならざるもの」としての自他未分の「生命」から分離する物語になっていると捉えた上で、確かに「自己」は最初からあったわけではなく、どこかの時点で成立し、意識されるようになったに違いないけれど、こうした自己形成のプロセスを証明することは決してできないし、自他未分の「生命」の存在も仮説でしかありえないように思えるという。
この点、木村氏は「生命を実体化し過ぎている」という批判につき、ここでいう「生命」とはリアリティとして対象化された生命ではなく、アクチュアリティにおける生命を語っていることから、このような批判は見当違いであり〈もの〉の世界であるリアリティと異なり〈こと〉の世界であるアクチュアリティは主観的に関わる中でしか感じ取ることができないという。
これに対して山竹氏は誰しも世界の中に生き生きした生命的なものを感じる瞬間はあるだろうし、木村氏の主張するアクチュアリティの世界について共感できる部分も少なくないとしつつも、木村氏の語る「生命」が対象化され得ないアクチュアリティにおける「生命」だとしても、その連続的な生命からの個別化を「自己」の形成として語るのは、やはり証明できない仮説といえるのではないかという。
ただその一方で山竹氏は木村氏自身の実存的な実感や体験に根ざしたその生命論は精神病理学でいうところの「自然な自明性(ブランケンブルグ)」や「現実との生ける接触(ミンコフスキー)」と同じ経験を指しているとして、こうした意味での生命を感じる経験の喪失は現象学的・人間学的精神病理学者たちが共通して重視してきたものであると述べている。確かに現象学が木村氏がいうところの「自分自身の経験に直接映ってくる景色をありのままに写生する」ための方法論であるとすれば、氏の生命論はむしろ現象学的精神病理学における可能性を大きく開いたものであったともいえるだろう。
12 ビオスとゾーエー
ところで木村氏は生きている〈こと〉と生きている〈もの〉の差異を神話学者カール・ケレーニイの知見に倣い、ディオニュソス的な生そのものとしての「ゾーエー Zoe」とアポロン的な個々の生命としての「ビオス Bios」の差異としても捉えている。ここでいう「ゾーエー」も「ビオス」もともに「生」を意味するギリシア語であるが「ゾーエー」が今の英語の「動物学 Zoology」の語源になっており「ビオス」が同じく「伝記 Biography」の語幹になっているように、前者は「動物的/身体的」という含意があり、後者は「人間的/精神的」という含意がある。また「ビオス」とは個人ごとに区切られた個別的でな生命であり、これに対して「ゾーエー」とは個人を超えた生きとし生きるものすべてに受け継がれてきた根源的な生命を指している。
つまり「私」とは個別的な生命である「ビオス」であると同時に根源的な生命である「ゾーエー」にも属しており、個別の身体を持った「ビオス」は「ゾーエー」との関係を保ちながら対象化された「リアリティ」を生み出すことになる。これが「私」の個別化、自己化、主体性の成立ということである。そして、この「リアリティ」が形成されることで「アクチュアリティ」が事後的に発見され「アクチュアリティ」と「リアリティ」の差異が生じることになるのである。こうした観点からいえば統合失調症の基本的な障害とはまさにゾーエーとビオスを結ぶ関係の不成立ということである。
こうしてみると木村精神病理学は「自己」「時間」「生命」という観点から一貫して「あいだ」の実相をまなざしているといえる。普段、我々はもっぱら「リアリティ」の位相からこの世界を観ている。しかし様々なこころの不調の問題にはこの「あいだ」が支配する「アクチュアリティ」の位相が深く関わっている。そして人がその生の物語を紡ぎ直していく営みもまた、こうした「リアリティ」と「アクチュアリティ」からなる多層的かつ連続的な現実の中に自らを位置付け直していく営みであるといえるのではないだろうか。
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