統合失調症論⑷
1 精神医療と社会運動のあいだで
フランスの哲学者ジル・ドゥルーズと精神分析家フェリックス・ガタリの共著『アンチ・オイディプス』(1972)は1968年にフランスで起きたいわゆる「5月革命」を駆動させた「欲望」の奔流を原理的に考察し、1970年代の大陸哲学最大のムーブメントを巻き起こした哲学書として知られている。同書の主旋律を成すのはその極めて激越なまでの精神分析批判である。この点、精神分析の創始者であるジークムント・フロイトは19世紀末、当時謎の奇病とされたヒステリーをはじめとする神経症の治療法を試行錯誤する中で、その原因が幼児期の性生活に由来する性的欲望と性的空想のなかにある事を突き止めて、幼児期の性生活の中核には異性の親に愛着を持つ一方で同性の親に対する憎悪を抱くという「エディプス・コンプレックス」という心的葛藤があることを発見した。
そしてこの「エディプス・コンプレックス」なる一見して奇怪なフロイト神話を構造言語学の知見を用いて再解釈したのが構造主義の代表的論客として知られるフランスの精神分析家ジャック・ラカンである。ラカンはエディプス・コンプレックスを「象徴界(言語の領域)」という「シニフィアンの構造」を統御するシニフィアンである〈父の名〉の導入として捉え、この〈父の名〉が正常に導入されているか否かを基準として、人の心的構造を「神経症」「精神病」「倒錯」のいずれかへと鑑別した。
こうしたフロイト=ラカンが提示するエディプス・コンプレックスに規定された「神経症=いわゆる正常」という構図をドゥルーズ=ガタリは同書において真正面から批判し、精神分析のオルタナティヴとして、いわば「神経症の精神病化」というべき「分裂分析」を提示することになった。同書においてドゥルーズ&ガタリが目指したのはいわばエディプス・コンプレックスに規定された欲望を内破する多様多彩な欲望の表出であり、こうした同書の企図はやがて同書の続編として公刊された『千のプラトー』(1980)において「リゾーム(根茎)」という概念へ昇華されることになった。
ここでいう「リゾーム」とはタケやハスやフキのように横に這って根のように見える茎、地下茎のことをいう。この点「ツリー(樹木)」は1本の幹を中心に根や枝葉が広がり階層化されており、我々が一般的に「秩序」と呼ぶものの特性を備えている。これに対して、リゾームには全体を統合する特権的な中心も階層もなく、ただ限りなく連結して、飛躍し、逸脱し、横断する要素の連鎖からなる。こうしたリゾームという言葉によって、ドゥルーズ&ガタリは、旧来の家父長的規範性からの逃走と偶然的接続による多様な生のなかに、単なるカオスではない別の秩序の多様な可能性を見出していくのであった。そしてこうしたドゥルーズ=ガタリの一連の議論の前提にはガタリのラボルド精神病院における実践がある。
あらためてフェリックス・ガタリとはどのような思想家なのか。ガタリは1930年にパリ北西部郊外に生まれ、10代後半からジャン=ポール・サルトルの実存主義に傾倒したことで左翼運動に関与することになり、大学入学後はラカンの薫陶を受け、学生たちからは「ラカン」というあだ名(!)をつけられるほど当時はラカンに魅了されていたそうだ。
その後、ガタリは1954年に精神科医ジャン・ウリの誘いに応じ、ラボルド精神病院に勤務して精神病患者の治療に従事する。その間、1968年5月にフランス全土で展開された学生運動・社会闘争に参加し、さらに監獄情報グループ(GIP)の運動に加わり、精神医療制度の変革を求める「制度論研究グループ」を設立して精神医療改革の中心メンバーとして活躍し、1990年代にはフランスの緑の党に所属して環境運動にも積極的にコミットするなど、1992年に急逝するまで社会を変革するための政治・社会運動で指導的役割を担い続けたのであった。
彼の思索の集大成的な論考である「三つのエコロジー」はそのタイトルが示すように現代社会の危機と病理とその解決の方途を「環境エコロジー」と「社会的エコロジー」そして「精神的エコロジー」という三つのエコロジー=生態学という巨視的な視点から考究するものである。すなわち、ガタリにとって自然を物理的対象として位置付け単なる開発の対象とする思考の構造を抜本的に見直し環境破壊を食い止めようという課題(環境エコロジー)は、宗教や人種や階級やジェンダーやセクシュアリティが複雑に交差した差別や抑圧を乗り越えるべく社会的関係をエコロジカルに変革する課題(社会的エコロジー)や、人間の活動を支える価値の支配的様式を反省して精神のエコロジーを再構築する課題(精神的エコロジー)と決して決して切り離すことができない三位一体の課題であった。
そして彼の死後から30年近くが経過したいま「人新世」と呼ばれる地球規模の時間軸でみても急激な環境変化が続く危機的状況は、かつてガタリが「三つのエコロジー」で語ったように一刻の猶予のない切実な現代社会の課題となっているといえるだろう。
2 制度論的精神療法とは何か
ガタリの思想の原点は彼の生涯の職場であったラボルド精神病院における実践にある。ガタリによれば彼がラボルドで働き始めた当時、フランスの精神医療はその多くの場合「ほとんど動物を飼うような管理システムで精神病を扱っていたので、患者は一日中そこいらをぐるぐる歩き回り、頭を壁に打ち付け、叫んだり殴り合ったりし、汚物や糞尿のなかにうずくまっているといった光景が普通」であったとされる。
そのような環境を抜本的に見直し、病院の制度や集団性を根本的に改革する運動こそがラボルドでガタリの実践した「制度論的精神療法」であった。この点、ウリによれば「制度論的精神療法」とは異質な諸領域や行動を組み合わせて欲望を循環させるためのさまざまな「仕掛け」を組み立てるための制度分析のことをいう。そしてラボルドにおいてガタリが取り組んだ仕事とは、まさにこうした領域や行動が常に変化しながら循環する横断的な制度を構成すること、そして常にその制度を見直し、不断に再組織化することであった。
その実践はガタリ自身が述べるところによれば、まず「病院の横断的委員会、とくに患者のクラブを発展させる」ことであり、具体的には「全体集会、書記局、在院患者とスタッフが同等の立場で運営する協同委員会、1日を活性化するための基盤委員会、新聞発行、絵画、裁縫、鶏小屋、園芸など、あらゆる種類の「作業所」をつくる」仕事になる。もっとも、このような新たな組織化を行うには医療看護のスタッフだけではなく、掃除や食器洗いなどを行う施設管理のスタッフ全員の協力が不可欠であり、さらには全員が横断的にさまざまな役割を分担して引き受けるという困難な課題が生じてくる。
こうした課題を解決するための一つのツールとして、ガタリがその重要性を繰り返し指摘する「図表=ダイアグラム(役割分担表)」という一覧表がある。ガタリは後年この「図表=ダイアグラム」という概念を精緻化させ「抽象機械」という概念へと結実させることになる。
集団行動、作業所の運営、精神療法など、日々の日常生活を織りなす施設のさまざまな活動を患者やスタッフや精神科医が責任をもって担う制度論的精神療法の本質的な方向性はあくまでも「看護する者と看護される者の関係、ならびに在院患者と病院職員の関係から差別をなくす方向に向かう」ことにあった。この点、課題解決ツールである「図表=ダイアグラム」と密接に結びついている「横断性」というガタリ独自の概念の萌芽はこの具体的・経験的な実践に由来している。
そして、在院患者と病院職員と医師の横断的関係の構成とは一方的な精神科医による「治療」や「教育」ではなく、日常生活の中での多種多様な応答を関係を通じて、精神病患者それぞれが「世界との関係」を切り結ぶことで独自の「宇宙」を切り開いていける多様な接触点を絶えず作り出すという目的に到達するための「仕掛け」であり、こうした「仕掛け」の構築こそが制度論的精神療法の主眼であったといえる。
1972年に刊行されたガタリの著作『精神分析と横断性』のなかに収録された「制度論的精神療法入門」「制度論的精神療法に関する哲学者のための考察」「転移」といった論考においてはガタリ自身の実践を通した制度論的精神療法の課題と方法そしてその哲学的含意が検討され「横断性」の概念から精神分析への批判的検討が行われている。これらの論考はいずれも1950年代の経験を踏まえて1960年代前半に執筆されたものであるが、こうしたガタリの実践を踏まえた考察が『アンチ・オイディプス』における革新的な議論へと結実したことは疑いないだろう。
3 集団における横断性
精神病治療の現場とは大きく精神科医と精神病患者という二つの集団から構成されるが、ガタリは何よりそうした「集団の発話」を問題にした。すなわち、精神医療において患者は発話へのアクセスを持っているのか、あるいは患者の集団は言表行為の主体でありうるのかという問題である。例えば精神科医が患者の言葉に耳を傾ける時でも、患者の言葉は精神科医という専門家の集団が共有する言語、すなわち「精神医学」における「制度的転移」として表出され、その言葉もあくまで精神医学という枠組みのなかで受容ないし理解されることになる。
そして、このような「集団の発話」の問題は精神分析にも当てはまる。ジークムント・フロイトの創始した精神分析はカウチに横たわる患者が紡ぎ出す自由連想に対して分析家が解釈を投与するという二者関係において展開することになるが、そこでもやはり患者の言葉は精神分析家という専門家集団が共有する言語、例えば「エディプス・コンプレックス」などという「神話」によって解釈されてしまう事になる。
このような集団間の構造的格差に基づく発話行為における非対称的な関係性を維持する限り、患者は自らが「「なにごとかをなしうる」ということを本気でうそいつわりなく言うことができるのだろうか」とガタリは問う。それが実際にできないのであれば「なにごとかをなしうる」「うそいつわりなく言うことができる」新たな関係性を構築しなければならない。そのためには患者と精神科医との上下関係はもちろんのこと、精神科医と施設スタッフとの上下関係をも抜本的に転換し、定型化された役割やプログラムによるのではなく、その時々の不確定な出来事や会話の進行から思いもかけないかたちで生起する相互のコニュニケーションを通じて、患者が「なにごとかをなしうる」と思えるような場を作りだすことが必要となる。
こうしたことからガタリは「集団における横断性」という概念ないし方法論を提起する。すなわち、精神病院における階層化され序列化された集団を解体し、人やモノの空間的・時間的配置を自在に組み直して異質な要素が横断的に結びつく、垂直的にも水平的にも脱中心化した連携からなる環境を創出し、精神科医や精神分析家といった集団の言語に依拠することなく、患者の特異な語りや言葉にすらならない身振りに現れる「結晶化されていないシニフィアン」に照準を合わせることで、患者の実存的生としての「宇宙」を押しつぶすことなく切り開いていく実践の(再)発明が目指されることになるのである。
4 構造と機械
人やモノの配列を横断的に組み替えて、既存の解釈枠組みによることなく、患者の「宇宙」を切り開くということ。これがガタリがラボルドで得た洞察であったといえるであろう。もっとも1960年代前半の時点では、人やモノの配列の変更による集合的アジャンスマン(アレンジメント)によって患者の言表が産出されるという機序に関する理論的検討は十分なかたちで行われてはいなかった。何より患者が自身の内的な声を外に向かって「発する」という、いわば「欲望」の生産の問題に関しては未解明であったといえる。
そこでガタリは無意識(正確には前-意識)のうちに声を発してしまうこと、身体が動き出すことといった欲望の生産を「マシーン=機械」という独自の概念を用いて考察した。この概念が登場するのは「機械と構造」(1969年)という論考からである。同論考においてガタリは「構造」と「機械」を区別する。この点、ガタリによれば「構造」とは「それを構成する諸要素の位置を諸要素相互にある反転システムによって決定するもの」と規定し「したがって、構造自身が別の構造に対してひとつの構成要素として関係づけられることもありうる」と述べる。ここでいう「反転システム」とは裏表の反転、明暗の反転、プラスマイナスの反転のような二項の差異によって各要素の相互の機能が決定されるものであり、ここでは構造主義のいうところの「構造」が念頭に置かれている。
またガタリは「主体的行為は構造のなかに包摂される」と指摘し「全体が非全体化される構造的プロセスが主体を取り囲み、そのプロセスは主体をある別の構造的限定の内部に回収しうる場合にしか離そうとしない」と述べる。つまり「構造」が可変的な「非全体化される構造的プロセス」であるにしても、主体は常に何かしらの「構造的限定の内部に回収」されることになるということである。
これに対してガタリは「機械」とは「本質的に主体的行為とは無縁である。主体はどこか他の場所にある」として「機械の浮上は構造的表象とは異質の画期、切断をしるしづけるのである」と指摘する。ここでいう「機械」とはひとまず通常我々が思い浮かべるメカニカルな工業機械や産業機械のみならず、マテリアルな質料を伴う物質すべてを含む概念として定位されている。人間や動物の身体も、植物の根も葉も茎も、そして鉱物や大地もガタリのいう「機械」である。
5 対象-機械 a
そしてガタリは「人間存在は機械と構造の交差のなかにとらわれている」という。そしてここでいう「交差」を三つの局面からガタリは捉えている。この点、第一の交差は技術革新による新たな機械の登場によって、従来の安定的な構造が揺らぐ事態をいう。第二の交差はガタリが「反生産」と呼ぶ機械による切断によってもたらされた不均衡や揺らぎを、機械が登場する以前の過去の賛美や機械の登場によって描かれる未来の賛美といった「想像上の再均衡」による「構造的な空間」が立ち現れる事態をいう。
第一の交差が機械から構造に差し向けられたベクトルであるとすれば、第二の交差は逆に構造から機械に向けられたベクトルであるといえる。これに対して第三の交差は第二の交差であった「想像上の再均衡」をはかる「幻想の生産」がなされたとしても「対象 a 」が「個人の構造的均衡のなかに仕掛け爆弾のように嵌入する」ことで「幻想の生産」が切断されるという特殊な交差として出現することになる。
ここでいう「対象 a 」は周知のようにフランスの精神分析家ジャック・ラカンが提唱した概念である(先述のように、ガタリはもともとラカンに師事していた)。ラカンは主体を斜線を引いた「$」と表記し、この斜線は主体がある種の〈欠如〉を抱えていることを示しており、これを精神分析では「去勢」と呼んだ。そして人は欠如を抱えた$として、この欠如を埋めようと欲望することになるが、畢竟この欠如を完璧に埋めることはできず、欲望する$は欠如のひとまずの覆いとして、何らかの対象にこだわりつづけることになる。このような「欲望の原因」を担う対象をラカンは「対象 a 」と名指し、$が対象 a を捉え損ねて延々と空回りをする構図を「幻想 $♢a」と呼んだ。
つまり、ガタリはラカンから対象 a という概念を一旦は継承した上でこれを「機械状化」しようと目論んでいるということである。ガタリは$をラカンのように唯一の欠如にこだわり続ける主体ではなく、自分を切り刻んで n 通りに変化する主体として捉え直し、このような主体の相関者としての対象 a もまた、n 個の「対象-機械 a」として捉え直したのであった。すなわち、ガタリのいう「対象-機械 a」とは「構造」の、つまり代理-表象作用としてのシニフィアン連鎖の交差点であると同時に、その存在はシニフィアン連鎖から切断された「それ自身でしかないもの」であるということである。
このように「構造」と「機械」との間の交差は上述した三つの局面から把握される。主体は確かに「構造」の座標軸の中にあり「機械」はとって主体は「他の場所」に存在する。しかしながら主体は「機械」とは無縁ではなく「機械」による「切断」の傍らにあり、かつこの「機械」は「構造」としてのシニフィアン連鎖からの「切断」を促す作動原因として、新たな主観性の生産に直接的に結びついているということである。
6 オイディプスから機械状無意識へ
こうしてガタリが「構造と機械」で展開した「機械」の概念はドゥルーズとの共著『アンチ・オイディプス』において発展的に継承されることになる。同書では身体を「器官機械」として、自然界の対象を「源泉機械」として、さらには星や虹や山岳といった景色までも機械として把握され、こうした複数の機械の連結プロセスの総体である「欲望機械」による「欲望生産」が行われることが主張された。
ここで重要なのは「欲望機械」による「欲望生産」は予め「主体」が存在し、その主体が能動的に欲望を抱くようなプロセスではないということであり、機械と機械が相互に連結する際に生成する欲望はあくまでも意識作用が働く前の前-意識作用の層で生起する。こうした視点から「無意識」を性的抑圧からの帰結として捉え「父-母-子」の三項図式から、つまりオイディプス図式から説明する精神分析の方法が批判されることになった。
すなわち、無意識とは抑圧された性的トラウマが浮上し再演され、さらに精神分析家によって解読される「劇場」なのではなく、何ものかを新たに生産する「工場」であるということである。ガタリとドゥルーズが照準しているのはあくまでこの機械連結から生まれる「機械状無意識」の生成に他ならない。
このような「機械状無意識」は後にガタリの著作『機械状無意識』(1979)では「共立平面 plan de consistance」の問題系として、さらにドゥルーズとガタリの共著『千のプラトー』(1980)では「内在平面 plan d' immanence」の問題系として論じられ、意識作用がはじまる手前の前-意識的な身体の情動が触発される地平が一貫して問題にされていくことになる。
こうしてみると我々の日常はさまざまな「機械」によって成り立っているといえる。人がその主観性を構成する発端には機械の連結が存在する。すなわち、ここでいう主観性の構成とは例えば部屋に溢れかえるモノであったり、SNSでたまたま目に留まった何気ないつぶやきであったり、四季をめぐる花々の彩りであったりと、さまざまな「機械」との連結がその発端にあり、それは「共立平面」ないし「内在平面」という地平における「欲望生産」により、その実存としての「宇宙」が立ち上がるということである。そして、こうした実存としての「宇宙」が立ち上がるプロセスをガタリとドゥルーズは「リトルネロ」という概念で名指すのであった。
7 カオスのなかに領土を創り出す
「リトルネロ」とはもともとイタリア語のritorno、ritornareに由来する音楽用語であり、歌の前奏、間奏、後奏における反復演奏を含意している。『千のプラトー』の第11セリー「1837年--リトルネロについて」はよく知られた次のような印象的な場面から始まっている。
「暗闇に幼な児がひとり。恐くても、小声で歌をうたえば安心だ。子供は歌に導かれて歩き、立ち止まる。道に迷っても、なんとか自分で隠れ家を見つけ、おぼつかない歌をたよりにして、どうにか先に進んでいく。歌とは、いわば静かで安定した中心の前ぶれであり、カオスのただなかに安定感や静けさをもたらすものだ。子供は歌うと同時に跳躍するかもしれないし、歩く速度を速めたり、緩めたりするかもしれない。だが、歌それ自体がすでに跳躍なのだ。歌はカオスから跳び出してカオスの中に秩序を作りはじめる。しかし、歌には、いつ分解してしまうかもしれぬという危険もあるのだ。アリアドネの糸はいつも一つの音色を響かせている。オルペウスの歌も同じだ。」
(『千のプラトー』より)
ここで述べられているようにリトルネロとは、まずもって「カオスの中に秩序を作りはじめる」ための営みです。暗闇の中、何が起きるかわからない状況におかれた幼い子どもは歌を口ずさみ、それを何度も反復することで、何とか不安を打ち消して一瞬であれ世界と自己との安定した関係を仮固定的に築いていくことになるということである。
そして、そのような営みは「領土」を表示することでもある。換言するとリトルネロとはカオスの中で一瞬の準安定状態を確保して「生きられる空間」としての「領土」を創り出す契機であるということだ。
その一方でガタリとドゥルーズは続けて次のような場面からもリトルネロを説明している。
「逆に、今度はわが家にいる。(中略)一人の子供が、学校の宿題をこなすため、力を集中しようとして小声で歌う。一人の主婦が鼻歌を口ずさんだり、ラジオをつけたりする。そうすることで自分の仕事に、カオスに対抗する力を持たせているのだ。(中略)だが、とりわけ重要なのは、子供が輪になって踊るのと同じように、輪の周囲を歩き、子音や母音を組み合わせてリズムをとり、それを内に秘められた想像の力や、有機体の分化した部分に対応させるということである。速度やリズムやハーモニーに関する過失は破局をもたらすはずだ。それをカオスの諸力を回復させ、創造者も被造物も破壊することになるからである。」
(『千のプラトー』より)
室内という外部から遮断された空間においても、あるいは子供が手をつないで輪をつくった中においても、口笛を鳴らしたり、歌を歌を歌うことで、その空間を自らの「領土」とします。しかし一瞬でも歌う速度やリズムやハーモニーが狂いはじめると、そこにはたちまちカオスが回復してくることになる。
いずれにしてもリトルネロとは石や木々や星や椅子や机や玩具など、あるゆる欲望機械の部品(部分対象)における質料のエネルギーを器官機械たるもうひとつの物質たる身体が受容して、発声や動作によって世界にエネルギーを折り返していくという「質料とのコミュニケーション」による「領土性のアジャンスマン(アレンジメント)」として表現する過程であるということである。
8 輪をつくり、輪の内部をアレンジし、輪を開く
そしてガタリとドゥルーズはさらに続けてリトルネロを次のような場面として描き出していく。
「輪を半開きにして開放し、誰かを中に入れ、誰かに呼びかける。あるいは、自分が外に出て行き、駆け出す。輪を開く場所は、カオス本来の力が押し寄せて側にではなく、輪によって作られたもう一つの領域にある。それはあたかも輪そのものが、みずからの内部に収容した活動状態の力と連動して、未来に向けて自分を開こうとしているかのようだ。そして、いま目的となっているのは未来の力や宇宙の宇宙的な力に合流することなのである。身を投げ出し、あえて即興を試みる。だが、即興することは、世界に合流し、世界と渾然一体になるのとなのだ。ささやかな歌に身をまかせて、わが家の外に出てみる。ふだん子供がたどっている道筋をあらわした運動や動作や音響の線に、「放浪の線」が接ぎ木され、芽をふきはじめ、それまでと違う輪と結び目が、速度と運動が、動作や音響があらわれる。」
(『千のプラトー』より)
つまり、最初の子どもが暗闇を歩いているというリトルネロの場面がいわば大地に輪を描く局面であり、次の家の中で子どもが宿題をしたりしているリトルネロの場面がいわば描かれた輪の周囲で躍る局面であるとすれば、ここで描かれるリトルネロの場面は輪の内部に蓄積された活動力が輪を突き破り外へと自らを開いていくこと、また外部の力を内部に引き込んでいく局面であるといえる。
この点、こうしたリトルネロの三つの局面を伊藤守氏は『フェリックス・ガタリの思想』(2024)において「輪をつくり、輪の内部をアレンジし、輪を開く」というシンプルな言葉で言い表している。そして、こうしたリトルネロの三つの局面の関係につきガタリとドゥルーズは次のように述べている。
「いま述べたことは特定の進化における継続的な三つのモメントではない。同一の事象における三つの局面なのである。そして同一の事象とはリトルネロのことだ。三つの局面は、ホラーにも、おとぎ話にも出てくるし、リートにもあらわれる。リトルネロは三つの局面をもち、それを同時に示すこともあれば、混合することもある。さまざまな場面が考えられる。あるときは、カオスが巨大なブラック・ホールとなり、人はカオスの内側に中心となるもろい一点を設けようとする。あるときは、一つの点の周りに静かで安定した「外観」を作り上げる(形式ではなくて)。これによって、ブラック・ホールはわが家に変化したのである。またあるときは、この外観に逃げ道を接ぎ木して、ブラック・ホールの外に出る。」
(『千のプラトー』より)
9 宇宙を生み出すということ
ガタリは遺作となった『カオスモーズ』(1992)において以上のようなリトルネロの三つの局面を次のように再定式化している。まず第一の局面は「実存の領域をとらえる境界画定のリトルネロ」であり、次に第二の局面は「集合的実存の領土」といわれる領土の内部で集合性を形成するものである。
これに対して第三の局面をガタリは「横断的リトルネロ」と呼び「そこに関係してくるのは参照の宇宙ではなく、生産されると同時にその所在を割り出すことができ、生み出したばかりでも元来そこにあり、まるで無窮の過去から存在したかのような非物質的実在の領域」としての「非物質的な宇宙」が広がっているという。
「『リトルネロ』の概念によって、われわれは、まとまった塊のような情動だけではなく、最高度に複雑で、音楽や数学のように非物質的な宇宙への入り口を開く触媒となり、脱領土化の度合いが最も高い実在の領土を結晶させるリトルネロをも捉えようとしている。」
(『カオスモーズ』より)
ここでリトルネロは世界の具体的な状況のなかでさまざまな要素が同時に絡み合いながら出現する出来事において一瞬与えられる「非物質的な宇宙」を触媒する契機として位置付けられることになる。そしてこのような契機は日常のいたるところに見出される。例えばひとつの詩や音楽が紡がれる時、その速度やリズムやハーモニーから思いもかけない新たな「宇宙」が生み出されるということである。
10 リトルネロの魔法
人はカオスに直面した時、不安や恐れに襲われ、自らの進路を見失ってしう。けれども人は何とかそれを乗り越えるべく、その時空にかすかな秩序を、あるいは希望を取り戻すべく、ひとつなぎのリトルネロを口ずさむ。まさにそこにガタリは「実存の時空間」としての「宇宙」を立ち上げるための「領土」を見定める。
すなわち「実存の時空間」としての「宇宙」を立ち上げるリトルネロとは世界に散乱するさまざまなモノ(質料)と直接結びつき、その置かれた環境に応じて絶えず生成変化していく「領土化」「脱領土化」「再領土化」からなる一連のプロセスに他ならない。そして、ここでいう「領土」とは、あるいは「居場所」と言い換えてもいいだろう。
輪をつくり、輪の内部をアレンジし、輪を開くということ。こうしたリトルネロにおける三つの局面は、人の「領土」ないし「居場所」としての「いまここ」をいわば「ここでいい」から「ここがいい」へと変えていく。こうした意味でリトルネロとは例えば読書をしたり、料理をしたり、片付けをしたり、創作をしたりといった日常における様々なモノとのコミュニケーションからなる「いまここ」のただなかに「実存の時空間」としての「宇宙」を立ち上げる日常のアレンジメントであるといえるだろう。
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