自閉症スペクトラム障害論


1「自閉」から「自閉症スペクトラム障害」へ

「自閉 Autism」という言葉の起源は1911年、スイスの精神科医オイゲン・ブロイラーの統合失調症論に見出される。ここで「自閉」とは「外界活動の離反を伴う内的生活の優位」と定義されている。それからおよそ30年後の1943年にアメリカの児童精神科医レオ・カナーが「早期幼児自閉症 Early Infantile Autism」を報告し、ここで「自閉」という言葉は単独の疾患概念となった。

カナーはブロイラーの「自閉」を彷彿させる特殊な病態をこの病名で取り出していたが、この段階では幼児自閉症は児童期に発症した統合失調症でありうると考えられていた。ところがその後、認知領域・言語発達領域における研究の進展に伴い1970年代には自閉症は脳の器質的障害であり統合失調症とは別の疾患だと考えられるようになり、さらにその病態の中心も言語の障害、ついで社会性障害へとシフトしていくことになった。

その一方でカナーの報告の翌年、1944年にはオーストリアの小児科医ハンス・アスペルガーは子どもに見られる精神病質(今日的でいうパーソナリティ障害におおむね相当するもの)の一つとして、やはりブロイラーの自閉概念を参照しつつ「自閉的精神病質 Autistische Psychopathie」を報告している。このアスペルガーの報告は諸般の事情があり長らく日の目を見ることがなかったが、1980年代に入るとイギリスの精神科医ローナウィングが成人の症例にもアスペルガーの症例と同様の特徴が見られることを発見し、その一群を「アスペルガー症候群 Asperger Syndrome」と名付けた。

アスペルガー症候群はカナー型自閉症の診断基準を部分的に満たす症例であり、言語使用に関して特異的な発達が見られる一方で、コミュニケーションに関してしばしば適切さを欠いており、とりわけ非言語的コミュニケーションに難がある点に特徴があるとされている。ここで自閉症は「社会性障害」「コミュニケーション障害」「イマジネーション障害」として再定義されることになる。これが世に知られる「ウィングの三つ組」である。

こうしたことから自閉症を「スペクトラム(連続体)」と捉える考え方が有力となり2013年に改訂された「精神障害の診断と統計マニュアル第5版(DSM-Ⅴ)」においてカナー型自閉症とアスペルガー症候群は「自閉症スペクトラム障害 Autism Spectrum Disorder」という名のもとに統合されることになった。

ASDの診断は現在では大きく2つの基準から行われている。その1つ目は社会的コミュニケーションの持続的障害である。その2つ目は常同反復的な行動や同一性へのこだわりなど限局化された興味や行動の様式である。これら以外にもASD児・者には感覚刺激への特異的な反応や記憶の異常や身体・運動技能の特異性といった多様な症状が見られる。


2 心の理論仮説

ASDの第一の診断基準である社会的コミュニケーションの持続的障害(対人相互的反応性の問題)とは(a)相手との注目・興味・関心の相互共有や双方向的な感情の交換や(b)目と目で見つめ合うことや表情身振りなど、他者に対する意思伝達的な仕草や行動や(c)状況に合わせて相手との関係を作り仲間を持とうとする傾向といった定型発達の子どもなら乳幼児期から自然に身につけているような対人行動上の間主観的な反応性が非常に弱かったり通常と異なっていることをいう。

このようなASDの特徴については、その中核に人の心を読む能力(メタ表象能力)の困難があるという「心の理論仮説」というものが主張されていた。そして、ここでいう「心の理論」の獲得のリトマス試験紙とみなされたのが「サリーとアンの課題」という名で知られる「誤信念 false belief」の理解を測る課題である。この課題ではある人物(サリー)が物をカゴに入れてその場を離れている間に、別の人物(アン)が物をカゴから別の場所にある箱に移してしまい、一連の様子を見ていた子どもに戻ってきたサリーが物を探すのはどこかを尋ねる。この課題に「カゴ」と答えるにはサリーは物を箱に移されたのを見ていないため、まだ物はカゴにあると勘違い(誤信念)しているはずだと推論しなければならない。

定型発達児は4~5歳ごろにこの誤信念課題に正解できるようになる。ところがASD児はたとえ6歳を超えても物が実際にある箱だと答えることが報告され、このことからASD児の障害は人の心を読む「心の理論」の欠陥にあるという仮説が唱えられることになった。

しかしこの仮説の最大の問題点は実際には誤信念課題をパスしてしまうASD児がいるということである。ところが彼らはたとえ誤信念課題を解決できても現実の社会においては克服しがたい困難を示す。つまり日常生活で求められる社会的能力とは「心の理論」を用いた推論能力とは異なるということである。


3 ASDの脳科学

このようにASD児における社会性障害は「心の理論」からは説明できない。彼らの困難は柔軟で即時的な、いわば直感的な人の心の理解にある。こうした対人関係は計算や推論を行う以前に他者と情動を交換しつつ自らの感覚や身体を相手のそれと協調させる間主観的な相互作用により、自分と相手、および両者を取り巻く世界に意味づけを行う実体験として生じるのである。

人の行動は顔の表情、視線、声、目的的な動作など瞬間的な対人刺激に満ちており、定型発達者はそうした目に見える対人刺激からほとんど直感的に他者の行動を理解しているが「心の理論」ではそこにあえて目に見えない「心」なるものがあるという前提を置いている。しかし、このような前提自体がむしろ定型発達的なコミュニケーションの実態を適切に説明できていない可能性がある。

では対人刺激の直感的理解とは通常どのようにして生じるのか。この点、ヒトの脳には目や口の位置や方向などを見分けたり相手の表情や動作を見たりまねたりするときにだけ活性化する特定の領域群があり、これらの領域の多くはヒトでは脳の表面を覆う大脳皮質にあるが、これらの皮質領域は実はより深い皮質下の領域とも密接な連絡を持っており、こうした領域群と皮質下との相互作用が対人刺激を一瞬にしていわば自動的に拾って解読し、それに対する反応を調整し実行する独自の機構をなしていると考えられている。

そしてこのような直感的な対人理解を可能とする機構は生得的なものではなく、乳幼児以降の長い時間をかけて社会的な刺激に繰り返しさらされることで、そうした刺激に最も適した特殊な機構が形成されると考えられている。脳神経同士の連絡がまだ定まっていない乳幼児の脳では、さまざまな神経間連結が試された結果、頻繁に連絡のついたものだけが残り、徐々に安定した脳神経の連絡が決まっていく。このよう脳神経の連絡が定型発達児とASD児では異なる発達の過程を辿っているものと考えられている。


4 ASDの特性と記憶の発達

ここまで見たASDの第一の診断基準である社会的コミュニケーションの持続的障害については現在においては心理学や脳神経科学的で多くの知見が提出されている。これに対して第二の診断基準である限局化した興味や行動の様式をめぐる検討はあまり進んでいない状況にあるが、最近のASDの記憶に関する心理学的知見からある程度の考察を行うことが可能となっている。

人間の記憶はさまざまな情報を保持している。保持できる期間の長さから記憶は大きく「短期記憶」と「長期記憶」に別れている。このうち「長期記憶」は「宣言的記憶(言語で表現できる記憶)」と「手続き的記憶(言語で表現できない身体感覚や運動・認知技能)」に分類され、さらに「宣言的記憶」は「エピソード記憶(自分自身の個人的な体験や出来事に関する記憶)」と「意味記憶(自分をとりまく世界に関する知識と概念)」に分類される。

記憶形成のプロセスは常識的に考えれば、さまざまな「エピソード記憶」の蓄積から「意味記憶」が形成されていくように思われるが、実際は幼児は自分の体験したことをまず「意味記憶」として獲得してから「エピソード記憶」が定着するようになるといわれている。これは新奇の事象や環境に対応するための認知的負荷の軽減から説明されている。

「エピソード記憶」の発達には自己意識とコミュニケーション能力の発達が必要といわれている。この点、自己意識の指標となる「鏡映像認知(鏡に映っている人物がいまここにいる自分であるという意識)」は1歳半以降にならないと現れず、さらに子どもが自身の記憶をめぐり他者とコミュニケーションを行うにはどの情報をどのように語れば良いのかを取捨選択する学習が必要となる。このため一般的には最初の「自伝的記憶(自分の体験に関わるエピソード記憶)」は早くて3~4歳以降に出現する。


5 ASDにおける自己意識

そしてASDにおいては意味記憶は損なわれていない一方でエピソード記憶や自伝的記憶に特異性があることが知られている。ASD者のエピソード記憶には情報を自分に関連付けて記憶させる自己準拠効果が見られず、自伝的記憶においてもASD者は自分自身の体験として語られるエピソード記憶が定型発達者に比べて減弱しているとされている。

またASD者がしばし「タイムスリップ現象」や「サヴァン症候群」を示すことが知られている。タイムスリップ現象とは脈略や状況と無関連に何らかのきっかけで突然過去の感情体験を再現してしまう現象をいう。また一部のASDが示すサヴァン症候群はバスや路線図や宇宙の惑星の名前をくまなく覚えていたり、過去の日付と曜日が瞬時にわかるカレンダー計算といった機械的記憶が知られている。このようにASDの記憶の特徴に共通するのは彼らの記憶が脱文脈的で断片的だということである。

この点、認知心理学者の内藤美加氏はASDの特性として自己体験意識(自分自身が体験したという強い想起意識)や心的時間移動(過去の追体験や未来の仮想的な事前体験)の減弱があるのではないかという仮説に基づき4~6歳の定型発達児と知的な遅れのないASD児それぞれ94名(論考執筆時点)の参加者を対象に出典記憶課題(獲得情報の出典を想起し特定することを求める課題)と未来課題(新奇な未来事象のために必要な準備の段取りを尋ねる課題)の正誤を調べた結果から、ASD児は幼児期後半になっても時間的に拡張する一貫した自己意識や自己体験の意識が脆弱なままであり、それが成人になってもなお続くエピソード記憶の減退やタイムスリップといった記憶の混乱や特異性につながるのだと考えられると述べている。

このことから内藤氏はASDの記憶の特異性は社会性障害同様に神経学的基盤が関わっているとして、おそらく海馬を中心とする皮質下領域と上位皮質を結ぶエピソード記憶と未来思考の核となる神経組織の形成不全に起因するものであろうといる。その一方で、特に自己に関わる情報の処理や自己意識は脳の特定の部位やネットワークが関連するという証拠はなく神経学的に局在しているわけではないことから、記憶と思考に関わる神経組織の形成の不全がもたらすひとつの帰結が記憶や時間性を伴う自己意識(心的時間移動)の特異性として現れるのではないかとして、このような自己意識の不全が「いまここ」にないものを想像し予期することへの困難や強い不安としてこだわりや限局化した興味などの症状と結びつくのではないかと推測している。

参考:内藤美加「記憶の発達と心的時間移動:自閉スペクトラム症の未解決課題再考」『発達障害の精神病理Ⅰ』(2018)所収


6 同一性保持

1943年にカナーが発表した自閉症における世界初の症例報告がいわゆる「症例ドナルド」である。本症例の患者、ドナルドは驚くべきことに1歳の時点で多くの詩歌を暗唱することができて、2歳前には23番の讃美歌と長老派の25もの教義問答の質問と答えを覚えたそうである。

ところが彼は様々な言葉を覚えることは得意だけれども、これらをを分節化して臨機応変に組み変えて使うことができなかった。定型発達者の場合、おおよそ1歳で一語文を獲得して、2歳で二語文を獲得する。つまり定型発達における2歳児は「ママ、いた」「ぼく、ごはん」などのように、2つの言葉を組み合わせて使えるということである。これに対してドナルドは、最初の一語文しか使えない状態のままで様々な言葉を覚えてしまっている。

例えばドナルドは母親の「あなたの靴を引っ張って」というひとかたまりの言葉と「靴を脱ぐ」という行動を1対1で結びつけている。ドナルドにとって「あなたの靴を引っ張って」という母親の言葉は「あなた/の/靴/を/引っ張って」というふうにいくつかの単語が分節化されたものではなく、むしろ「開けゴマ!」のような「靴を脱ぐための呪文」として扱われている。ゆえにドナルドは「あなたの靴を引っ張って」という呪文を、後日、自分が靴を脱ぎたくなったときにもそのまま反復的に使用するようになるのである。

彼は最初に覚えた言葉を、まるでテープを再生するかのように同じ形で、つまりは臨機応変に組み変えることなく、最初に覚えた時のままの状態で繰り返している。このような特徴をカナーは「同一性保持 maintenance of sameness」と呼ぶ。のちにバーナード・リムランドによって「閉回路現象 closed-loop phenomenon」という名前が与えられたこの現象は、彼らが入力された刺激を「原料のまま」に再生することに専念しており、その「原料」を混ぜあわせ新しい「化合物」を作ることがないということを意味している。


7 ブラックホール体験

先述したドナルドは他者にまるで興味がなく、人見知りもせず、その一方でフライパン回しなど一人遊びを好み、それを他者に妨げられるとかんしゃくを起こすことがあったそうだ。こうしたドナルドの振る舞いは他者から自分に向けられた「志向性」を遮断しているように見える。

ここでいう「志向性」とは他者からの「まなざし」や「声」という形で自分の側に向けられたベクトルのことをいう。他者と自然と目を合わせたり、呼びかけに応じたり、他者の存在を前提にした振る舞いなどは志向性に気づくことで生じる間主観的な行動ということである。

他者からの「まなざし」や「声」を遮断することで自閉症者は自分だけの他者性のない安定した世界を作り上げようとする。そしてこの志向性遮断が破れ世界に他者性が侵入してくる時、自閉症者の世界は破滅的な状況に陥ってしまい、この混乱をより強い刺激で収めようとして、時には飛び降りやリストカットといった衝動的な自傷行為を起こしてしまうことがある。

こうした破滅的な状況は「ブラックホール体験」と呼ばれる。この「ブラックホール体験」は自閉症の世界が「欠如の欠如した世界」であることを示している。自閉症者がパニックに陥るのは他者の「まなざし」や「声」が彼らを触発して、その内的世界の中になんらかの「不在」が現れる時である。この点、定型発達者は不在を「あるべきものがない」という「欠如」として象徴的に処理する。ゆえに定型発達者は「不在」に対してそれほどパニックになることはない。

ところが自閉症者はこの象徴化が上手くいっていない為「不在」を「欠如」として象徴的に処理することができない。こうして何の「不在」のないはずの「欠如の欠如した世界」の中に突如現れた「不在」はこれまで体験したことのない「現実的な穴=ブラックホール」として現れて根源的不安を引き起こすことになる非本来性のである。


8 視線恐怖

菅原誠一氏は論考「見られるとはどういうことか」において自閉症スペクトラム障害(ASD)の自験例を挙げた上で、現象学者の村上靖彦氏が提唱した「視線触発」という概念を参照しつつASDにおける視線恐怖を論じている。

ここで村上氏のいう「視線触発」とは「視線や呼び声、触れられることなどで働く、相手からこちらへと一直線に向かってくるベクトルの直感的な体験」であり、必ずしも他人の眼それ自体を知覚しなくても、物音や気配で視線を感じ取ることもある「知覚とは異なる次元で成立している概念」である。また村上氏は「(絶えず誰かに見られているという)統合失調症の妄想であるにしても、眼球の知覚を伴わない視線の経験はありうる」という。つまり、眼球知覚なしに視線を感じ取る「視線触発」とは定型発達者から統合失調症患者まで幅広く認められる現象であるということである。

この「視線触発」は定型発達児の場合、乳幼児のごく早期から成立する体験であるといわれている。村上氏は「ほとんどの人は覚えている限り視線を感じる世界のなかで育ってきている」といい、定型発達には「もっとも原初的な層においてすら視線触発を前提とせざるを得ない」としている。これに対して自閉症児の場合、村上氏は「目も合わず他者というものを知らない重度の自閉症児から、他者の存在に気づいているけれど視線を怖がる自閉症児、あるいは特に視線を怖がらないがコミュニケーションにぎこちなさを残す自閉症児など、さまざまな状態がある」という。

この点、菅原氏は「(村上氏が挙げる)自閉症患者が視線恐怖を持つようになった実例は全て、目が合うことへの恐怖を訴える例ばかりであって、例えば後ろから見られることへの恐怖、視野の外にある視線の恐怖は登場しない。よって当然ながら、周囲にだれもいない場面での視線恐怖も登場しない」といい「以上の村上の著書と自験例からの知見をまとめると、ASDの視線恐怖の特徴として、目が合うことへの恐怖を訴えることが多く、誰もいないところで注察感を感じることはほとんどなく、後方など視野外からの注察感を感じることもほとんどないということになる」と述べている。


9 タイムスリップ現象

タイムスリップ現象とは感情的な体験が引き金となり、同様の過去の記憶体験をあたかも現在の体験であるかのように扱う現象をいう。そして、その記憶体験は言語獲得以前まで遡ることがある。

こうした不思議な現象を理解するには、自閉症者の棲まう時間の特異性を考えてみる必要がある。普通、我々にとって時間とは「過去→現在→未来」へとあたりまえに進むものであり、記憶もまた過去のことが現在に至るまで連続的に発展してきたものとして与えられており、未来もまた現在から連続的に発展するものだと漠然と考えられている。そしてそのような線状の時間の上に、自分が何者であるかをある種の「物語」として規定する自己(物語的自己同一性)が成立する。

これに対して自閉症者において時間は「過去→現在→未来」と線状に進むのではなく、むしろその都度その都度の様々な時間が点状に散在している可能性がある。このような時間構造の中では、普通の意味での自己(物語的自己同一性)は成立していないことになる。

すなわち、自閉症者にとっては過去の記憶は巨大なデータベースの中に、時間によって整序されていない等価な「あの出来事」「この出来事」として格納されているということである。つまり、これは一つ一つの記憶(出来事)がそれぞれ、他のものには還元できない「〈この〉性」をもっているということである。

定型発達者の記憶とは言語により抽象化・一般化された記憶であり、言語獲得以前の時期に体験したことは記憶に残らない。反対に自閉症者の記憶は言語により抽象化・一般化されていない「純粋な出来事」としての記憶である。ゆえに自閉症者は言語獲得以前の記憶をも持ちうるということである。

自閉症者はこうした点状に散在する記憶を生きていながら、社会的時間に適応するため、これらの記憶をなんとか自力で仮にまとめあげている。けれども、そこに自身が揺さぶられるような不快な体験が起こったとしたら、その仮のまとめあげが崩れ、過去が現在に侵入してくる事になる。これがタイムスリップ現象の構造である。


10 相貌失認

清水光恵氏は論考「他者の顔、わたしの顔」においてASDにおける他者の顔との出会いの困難という問題を概観している。ASD者は他者の顔をまなざさないこと、そして他者の顔や名前を覚えるのが苦手なことがよく知られている。清水氏は患者の話を聞いていると彼らは知っているはずの他者が髪型を変えたり、あるいはいつもとは違う場所でその他者と出くわしたりするとたちまち誰なのかわからなくなってしまうことが多いという。しかも驚くべきことにこの他者には同居の家族さえ含まれている。

例えばある患者は街の雑踏の中で母親を見分けるのには母親の髪型といつも持っている鞄を手がかりにしている。また別の患者は人の顔を見分けるのは問題ないといっていたが、さらに聞いてみると例えば妹について「(自分が)大学から帰る時間に自宅にいるのは妹に決まっているので間違いない」と言い、では街路で偶然妹に出会ったらどうかと清水氏が尋ねたところ患者はあっさりと、わからないだろうと答えたという。

つまり、彼らは他者の髪型や眉毛や鼻や顎の形、眼鏡、服装や持ち物など外見全体のうち比較的変化に乏しく固定的な部分的特徴や、その他者と出会う場所と時間の経験則に頼ってなんとか他者の同定を試みているということである。例えばASDの当事者研究で知られる綾屋紗月氏は論考「発達障害当事者から--あふれる刺激、ほどける私」において顔認知にあたって「目、鼻、口、耳というそれぞれのパーツ」や「表情や顔や筋肉が動くパターン、声のトーンや話し方の癖」など顔情報を細分化して記憶すると述べる一方で、これらのパーツ情報を全体像として捉えるのが難しく、ひとりの人としてまとめ上げにくいと分析している。こうしたことから清水氏は「ASDの世界では基本的には、『パーツ』はあるが顔はない、その意味ではのっぺらぼうの名もない現象(という他者たち)が生起している」と述べている。

また清水氏は別の論考「自閉症スペクトラム症の患者はなぜ人の顔と名前を覚えるのが苦手なのか」において他人の顔を覚えることのできないというASDの自験例を取り上げている。初診時20歳の大学生であったX子は4回目の面会の際にも担当医師(清水氏)の顔を覚えておらず、そのことを問うてみたところ、彼女は他者の顔を目の形や鼻の形、あるいは髪の毛の生え際、おでこの広さ、肌の荒れ具合、出っ歯といった様々な属性の組み合わせで覚えているため、その他者が急に髪を染めたりとか坊主頭になったりするとわからなくなるという。

清水氏はこのような他者の顔を覚えることができないというASDの特性をバートランド・ラッセルやソール・クリプキの「固有名 proper name」をめぐる議論から理解している。この点、固有名とは何かということを考える哲学的立場には大きく分けて「記述主義 descriptivism」と「反記述主義 anti-descriptivism」の二つがある。

一方の記述主義の立場では固有名は確定記述(=その固有名を定義する属性や説明)の束に還元できるとされる。たとえば「アリストテレス」という固有名は「古代ギリシアの哲学者」「アレクサンダー大王を教えた」などの一連の確定記述の束に還元できると考える。ところが記述主義の立場をとった場合、もし仮に歴史的調査によって「アリストテレスはアレクサンダー大王を教えていなかった」ことが判明した場合に「アレクサンダー大王を教えた人物は実はアレクサンダー大王を教えていなかった」という無意味な命題が生じてしまう。他方、反記述主義の立場からは固有名は確定記述の束には還元できず、むしろ確定記述に還元できない反記述的なクオリア(主観的に感知される特定の質)こそが固有名を支えていることが帰結されることになる。

このような固有名をめぐる議論の文脈からいえばX子は人の顔を記述主義的に確定記述の束として捉えており、反対に定型発達者は人の顔を反記述主義的に捉えているともいえる。


11〈この〉性と確定記述のあいだ

こうしたことから松本卓也氏は論考「自閉症スペクトラムと〈この〉性」において清水氏が提示した固有名をめぐる議論を「〈この〉性」の問題として論じている。この点、定型発達においてはしばし此性と確定記述の接続が問題となる。例えば「私は私である Je suis Moi」という文における主観的自我としての「私 Je」と対象的自我としての「私 Moi」の関係は此性と確定記述の関係に相当するものであり、ここで「私」は自分が何者かであるかを陳述するため「私」を対象化し、その確定記述(年齢、性別、出身、所属等)を数え上げていくことになる。けれども、そのようなやり方では主観的自我としての「私」は対象化され得ない「無」となり、時にこの「無」が危機的な裂け目として迫り出してくることがある。

そして、このような意味での「無」を20世紀を代表する哲学者の1人に数えられるマルティン・ハイデガーは「存在 Sein」という言葉で名指した。例えばハイデガーは1929年の公開講義「形而上学とは何か」において「存在」を問うために「無」とは何かを議論する必要があると述べ、その顕われとして統合失調症における妄想気分や世界没落体験のような「何となく不気味だ Es ist einem unheimlich」という体験を参照している。

すなわち、存在者の総体(世界を構成する事物)には何の変化も「無」いにもかかわらず、この世界はどこか不気味であり、むしろ世界には何の変化も「無」いことそれ自体が不気味であると感じられるような意味未満の意味のざわめきに満ちた「何となく不気味だ」という体験においては「何も無い Nothing exists」ことが「無がある Nothing exists」ことへと転化してしまうということである。

ところが、このようなハイデガーの主張に対して論理実証主義を代表する哲学者であるルドルフ・カルナップはそれは単に「言葉のあや」に過ぎないと批判する。すなわち「外に何があるか What is outside?」という問いに対して「何もない Nothing is outside」という答えを「無が外にある Nothing is outside」と読み替えることによって「無」の積極的な性質をいおうとするのは無意味な論理に過ぎないということである。

このようなカルナップの立場を松本氏は固有名を確定記述の束へと還元することによって把握しようとするX子に類似しているという。その一方で松本氏は同論考でX子とは対照的に他者の顔を覚えることが極度に得意なASDの症例としてドナルドを取り上げている。ドナルドは2歳になる前に人の顔と名前に関して異常な記憶能力を持っていたとされている。彼はある瞬間に自分の目の前で起こった新しい出来事を固有の〈この〉クオリアを持つものとして名指し、その驚きと喜びを既存の確定記述に還元することなく絶えず反復しているということである。いわば彼は確定記述に還元不可能なクオリアとしての「〈この〉性」だらけの世界を生きているといえるでしょう。

この意味でASD者は一方でX子(アスペルガー型)のように「〈この〉性」の存在しない領域において確定記述の束によって固有名を把握しようとする徹底的に記述主義的な世界に生きており、他方ではドナルド(カナー型)のように他のものに分節不可能な「〈この〉性」に溢れた徹底的に反記述主義的な世界に生きているといえる。この二つのケースはまさしく両極端に見えるが、自閉症者の中ではしばしばこれらの特徴が矛盾なく同居することがある。すなわち、ASD者においては「〈この〉性」と確定記述の接続それ自体が拒絶されているということである。


12 現代ラカン派における自閉症論

フランスの精神科医、ジャック・ラカンはフロイトの精神分析理論を精神病の方面から読み直すことで独創的な理論体系を築き上げたことで知られている。ではラカンは「自閉症」についてはどのように考えていたのか?

アメリカの児童精神科医レオ・カナーの論文「早期幼児自閉症」が発表されておよそ10年後、ラカンは早くもセミネール1「フロイトの技法論(1954年)」において、現代であれば「自閉症」と診断されるであろう症例を取り上げている。いわゆる症例ディックと症例ロベールである。

ここでラカンは自閉症をスキゾフレニーに近縁の精神病的構造をもっていたと考えていたようである。例えば、ロベールが発する「狼!(loup!)」というシニフィアンは、精神病における幻聴のシニフィアンと同じような他のシニフィアンから切り離された「ひとつっきりのシニフィアン」として捉えることも可能でということである。

時代は下り、ラカンはセミネール11「精神分析の四基本概念(1964年)」の中でディックやロベールが用いていた上記のような言語使用の特徴を「オロフラーズ(一語文)」として把握する。ここでいう「オロフラーズ」とは二つのシニフィアンS1とS2を分節化することなく凝集し、一つの塊として用いる語の使用である。例えばテンプル・グランディンの伝記映画では、彼女が出会う人に次々と「ワタシノナマエハテンプルグランディンデスハジメマシテ」と挨拶する場面がある。また、シニフィアン連鎖のオロフラーズ化は、他人の言葉も一言文に凝集して理解してしまうので「空気を読む」といったコミュニケーション上の困難が生じることになる。

そして1970年代に入り、ラカンは「症状についてのジュネーヴでのシンポジウム(1975年)」という講演において「自閉症」という言葉をはじめて疾患の意味で使用している。ここでもやはりラカンは自閉症をスキゾフレニーと近縁のものとして捉えてはいるが、自閉症者に現れる諸現象を対象 a としての「声」という観点から新たに捉えようとも試みている。

この点、精神病者に生じる言語性幻覚(幻聴)は「声」を「外部の他者から到来したもの」として聞いているのに対して、自閉症者は「自分自身から来るもの」として聞いていることになる。ここでラカンは自閉症における声が持つ自体性愛的な性格を指摘している。つまり彼らにとって「声」とは〈他者〉との間のやり取りのために用いられるのではなく、その「声」を対象 a として自身の身体に保持し自閉的享楽を得るために用いているということである。

このように晩年のラカンは自閉症の特異性に気がついていた節はあるようではあった。しかし自閉症をもっぱら「シニフィアンの病理」という側面のみで捉えた時、それは原初的象徴化の失敗、疎外の拒絶に他ならず、この限りにおいては自閉症と精神病は同一圏内にある、ということになる。

こうしたことからラカン派において自閉症は長らく「子どもの精神病」と考えられてきた。ところが1980年代以降、テンプル・グランディンの『我、自閉症に生まれて』や、ドナ・ウィリアウズの『自閉症だった私へ』といった自閉症者の伝記出版が相次ぎ、自閉症者の内的世界が徐々にあきらかになった。そしてラカン派内部でも、自閉症を「シニフィアンの病理」のみならず「享楽の病理」という側面から仔細な検討が加えられ、ルフォール夫妻による「〈他者〉の不在」とエリック・ロランによる「縁の上への享楽の回帰」という概念の導入によって、自閉症は精神病から決定的に切り離されることになった。

こうしてゼロ年代後半、ジャン=クロード・マルヴァルの手により、現代ラカン派の自閉症論は体系化されることになる。マルヴァルの自閉症論の体系はドナ・ウィリアムスの次の言葉に集約されている。

これはふたつの闘いの物語である。ひとつは、「世の中」と呼ばれている「外の世界」から、私が身を守ろうとする闘い。もうひとつは、その反面なんとかそこに加わろうとする闘いである。

(自閉症だった私へ:24頁)

すなわち、自閉症者はシニフィアンや享楽から身を守りつつ〈他者〉との関係性を特異的な方法で創造しようと試みているということである。こうした営みをラカン派の理論体系から把握しようとした時「緑の上の享楽の回帰」「分身」「合成〈他者〉」の三つ組の概念が導き出されることになる。

⑴ 縁の上への享楽の回帰

自閉症者は原初的象徴化が上手くいっていない為、欠如という概念を持て余し、それはしばし「現実的な穴」として根源的不安を引き起こす。これはいわゆる「ブラックホール体験」と呼ばれるものであり、享楽の観点から言えば、子供にとっての原初のトラウマ的シニフィアンであるララングの反復が生み出す「不定形の享楽」の侵襲として捉えられる。そこで彼らは目や口や耳といった「縁取り構造」を持つ身体器官に殻を作り上げ、身体を襲う不定形の享楽をその中に閉じ込めようとするのである。

例えばドナはしばし激しい「まばたき」を行っており、彼女曰くその反復運動は「物事のスピードを緩め、自分の周りのものを、自分からより遠ざかったものにするため」であったという。こうすることで「あたりがコマ送りの映画のようになって現実感が薄れるので、恐怖心もやわらぐ」とドナは語っている。

また「緑の構造」の例としては「声の保持」を挙げることができる。マルヴァルは自閉症者の言語使用は「声」という対象 a を〈他者〉に手渡そうとせず、むしろ保持しておこうとすることから帰結すると考えている。ロベールの例の「狼!」といったオロフラーズは「不定形の享楽」から身を守るための「一つの現実的穴に見合うシニフィアン」といえるし、自閉症における場面緘黙はこうした観点から理解できるだろう。

自閉症者にとって「縁」は、安心できる既知の世界と理解不能な混沌な世界(ブラックホール)を分割し、外的世界と関わるための基点となるのである。そして彼らはこの「縁」から出発し、より高次のコミュニケーションの可能性を拓いていくことになる。

⑵ 分身

自閉症者は言表行為の主体を持って応答すべき状況に置かれたときしばし混乱を伴う。このような状況の際に自閉症者を補助してくれる装置が自らの「分身」である。例えばドナは他者とのコミュニケーションを取ることが難しい時、ウィリー、キャロルといった自らの分身となる空想上の存在の助けを借りていた。分身はドナにとっては周りの子供たちよりずっと信頼でき、絶対的な安心感を得られる存在であったということである。

このような空想的(想像的)な存在との関係のあり方は精神病と自閉症では大きく異なっている。この点、精神病では想像界の増殖の結果、空想的(想像的)他者が現れる。けれども、その他者は主体を迫害する他者であったり、主体の享楽を強奪する他者であったりする。このように精神病における他者への関係は双数的、決闘的な鏡像関係に支配された悪意に満ちたものになる。これと反対に、自閉症における空想的(想像的)他者はむしろ自閉症者を助けてくれる補助的自我として機能することになるのである。

⑶ 合成〈他者〉

高機能自閉症やアスペルガー症候群の患者においては、幼児期に示した特異的な能力や極端なこだわりを高度なものに発展させていくという例がよく見られる。自閉症者は、例えば時刻表、電話帳、カレンダーの丸暗記など、特異的な能力を持っていることがある。こうした「島状に点在する能力」を次第に発展させていくことで、彼らなりの個人的な秩序が作りだされていくのである。

断片的な「点」でしかなかった世界は、いつしか「線」となり、やがて「面」にもなる。そして、このような自閉症者の能力の発展は時にイノベーションと呼ぶべき創造的効果を生じさせることもある。ここには自閉症圏における一般的な〈他者〉構造に依拠しない特異的な構造化を見いだすことができる。このようにして創り出された特異的な〈他者〉を「合成〈他者〉」という。


13 精神分析の彼岸としての「洗練された自閉症」

ともすれば自閉症圏の主体ははたから見れば自らの世界だけを生きているようにも見えるかもしれない。しかし、上記のドナの言葉にもあるように、その世界は決して閉じたものではない。そこには、日常的に現れる底なしのブラックホールを自分なりの秩序で囲い込み、他者との間にとぎれとぎれに結びついていく試行錯誤があるということである。こうした自閉症圏における「切断と再接続」の営みはラカンが精神分析の終結条件とした「症状とうまくやっていくこと」とはどういうことなのかを、もっとも鮮明な形で我々に教えてくれる。

自閉症に限らず人は誰しもその人固有の〈一者〉というべき自閉的な享楽を抱えている。つまり「症状とうまくやっていくこと」とは、こうした〈一者〉を一旦「切断」し、その上で〈他者〉と「再接続」することにより自由な社会的紐帯を紡ぎ出す「洗練された自閉症(ジャック・アラン・ミレール)」としての生き方に他ならない。いわばラカンは精神分析を自閉症化する事でかつてフロイトが陥った「終わりなき分析」のアポリアを乗り越えたというべきであろう。


14 近代的有限化と別のしかたでの有限化

ASDにおけるさまざまな行動の様式はASD者が断片化した自己をまとめ上げ、世界の中に自身が棲まうための「有限化の技法」であり、そしてこのような有限化は近代的有限化=主体化に対する別のしかたでの有限化であるともいえる。
例えば近代哲学を確立したイマヌエル・カントの超越論哲学においては我々が認識しているものは「現象」であり、その外部に不可知の「物自体」が想定される。そしてラカン派精神分析においてもこのようなカント的構図が引き継がれており、イメージの領域である「想像界」と言語の領域である「象徴界」の外部としてイメージや言語では意味づけができない「現実界」が想定される。これらの構図はいずれも「物自体」とか「現実界」などといった到達不可能な外部から個人を有限化=主体化しようとする発想に立っている。

これに対して近年の哲学的潮流はこうした近代的有限化=主体化とは別のしかたでの有限化を提唱している。例えば「思弁的実在論」や「オブジェクト指向存在論」といった現代実在論はカント以降、近代哲学を規定してきた「相関主義(世界には接近不可能なものがあり人間はそのような不可能性を整除した限りのものしか認識し得ないという立場)」を破棄し、人間による意味づけとは無関係に偶然的に実在する事物それ自体を問題にしている。また現代ラカン派においてもラカンの娘婿であるジャック=アラン・ミレールが提唱する「逆方向の解釈」のようにシニフィアン連鎖以前に単独的に実在するシニフィアンとしてのララングの析出を重視している。

こうしたアプローチは「物自体」とか「現実界」などといった到達不能な外部から生み出される意味の無限増殖をいわばその「さらなる外部」としての実在レベルで有限化しようとする発想に立っている。こうした観点からいえばASDにおける限局化された興味や行動の様式は世界における意味のカオスを常同反復的な行動や同一性へのこだわりといった実在的なリズムで切断していく「有限化の技法」であるといえるのではないか。そして、このような近年の哲学的潮流の傾向性とASDの前景化は現代という時代におけるある種のコンステレーションとして把握することもできるのではないだろうか。




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